特等席はもうキミのもの。(桃城×静)

七校合同学園祭が終わり、広瀬静が桃城武と恋人同士という関係になって約二ヶ月。夏の肌を刺すような暑さは遠のき、夕方になれば少し肌寒い風が吹くようになった頃。
 部活を終えた桃城と二人で並んで歩き、校門が見え始めた所に辿り着くと、
「じゃ、自転車取ってくっから」
「はーい」
 ここで待ってろよ、とそう言って桃城が所定の位置にある自転車置き場へ駆けていった。
 桃城の自宅から青春学園へは距離があるらしく、その為に彼は自転車通学を許可されている。これがあるから少し寝坊しても平気なんだぜ、と笑った恋人をふと思い出し、苦笑いを零していると。
「広瀬先輩?」
「あ、越前くん」
 不意に名前を呼ばれた方へ視線を上げると、そこに立っていたのは越前リョーマだった。静にとって学園祭開催の為に様々な苦労を共にした可愛い後輩の一人だが、桃城にとってもそれは同じく、いや同性でありチームメイトとして切磋琢磨するリョーマを彼はもはや弟のように可愛がっているようだ。
 部活ではいつも被っているトレードマークの白いキャップは今は被っておらず、まっさらな黒髪が夕陽に照らされていて、少し長めの前髪から覗く大きな目からは鋭さを感じない。
「委員会のお仕事だったんだよね、お疲れ様」
「ウィッス」
 一人で笑っているところを見られたかな、と聞きたくも聞けはしない羞恥を抱きながら、静は何ともない顔をしてそう声をかける。
「確か図書委員だったっけ?」
「そう、図書室の当番」
 本日リョーマは委員会の為、部活動を欠席していた。
 放課後に図書室を利用する生徒は一定人数いるようなので図書室の管理をする人は必要だが、何よりもテニスをしているのが好きなリョーマにとっては少々忍耐を要した時間だったらしい。ふぅ、と大きなため息を漏らしながら答える。
「そういう先輩はここで何してるんスか」
「武くんが自転車取りに行ってるから待ってるの」
「たけし? …………ああ、桃先輩のこと」
 聞き覚えのない名前だと言わんばかりに首を傾げたリョーマだったが、真面目な静が名前を呼ぶ稀有な存在と、記憶の底に沈んでいたのであろう先輩のそれが一致したらしい。
「仲いいっスね。ま、付き合ってるんだから当然か」
「ふふ、越前くんには及ばないけどね」
「なにそれ」
 静をからかったつもりなのだろう。しかしからかわれてばかりいる静ではない。にっこり微笑んで返した言葉は予想外だったらしく、怪訝な顔をする後輩は、最初会った頃の印象とは随分違う。
「越前くんが部活に入った時から面倒見てるんだーって言ってたよ?」
「面倒なんか見られてないっス。寧ろ、俺の方が桃先輩の面倒見てることの方が多いと思うけど」
 心外だと言わんばかりに不貞腐れた顔で反論するリョーマ。確かに大雑把なところがある桃城を、なんだかんだ言いながらリョーマがフォローしている――ツッコんでいると言うべきかもしれないが――光景は何度か見たことがある。どちらの言い分が正しいかはまだ二人と過ごした時間が短い静には分からなかった。ただはっきりしているのは、そんなことを言えてしまうぐらいには桃城に気を許しているのだろうし、慕ってもいるということ。
「……あ、そうだ。あのね、越前くんに聞きたいことがあったの」
「何スか?」
「この前、武くんに聞いたんだけど」
「俺の話ばっかしてるんスか?」というリョーマの言葉は軽く流して、静は続ける。
「登下校で越前くんをよく自転車に乗せてたって」
「でも越前のヤツを待ってたら、俺も危うく遅刻しそうなことが多くて困ったぜ」――と、口調自体は寝坊癖がある後輩を咎めているものの、しかしとても優しい声色で、いつものように静を後ろに乗せてくれながら語った桃城。
「あぁ、うん。確かに乗せてもらってたけど。それが何?」
「今は行きも帰りも一人だから、大丈夫かなと思って」
 余計なお世話だと思われそうだったが、話を耳にした時からどうしても聞いておきたかった。
 付き合い始めてからの静の登下校には、桃城が傍にいることが増えた。正確に言うならば、静がマネージャーとしてテニス部に入部してから。部活動の始まりも終わりも同じで、帰路の方向も同じ。そして恋人同士という関係ならばそれは必然だったのだろう。その帰り道にファストフード店に寄り道デートをすることも度々ある。
 しかし静が恋人と過ごす時間が増えたということは、つまりリョーマは仲良しの先輩との時間が減ったということだ。自身よりも付き合いが短い静に桃城との時間、更には通学の足も取られたようなもの。リョーマにとっては決して面白いものではないだろう。
「平気ッス。その証拠に最近遅刻してないじゃん」
 先輩だってマネージャーになったんだから知ってるでしょ、と静の心情を知らないリョーマはけろりとした顔でそう返してくる。
 出会う前のことは知らないが「越前の遅刻する回数が減ったな」と先輩達が話していたのは知っている。知っているけれど――。
 どう言ったらリョーマの気分を害さないのか分からず、静が口ごもっていると。
「……もしかして、先輩。俺から桃先輩との時間取ってるかも、とか思ってる?」
「えっ!?」
 静の大層驚いた顔を見て、ふーん、とリョーマが呟く。
「適当に言ったのに、当たりなんだ」
「……二人が仲良しなのは見てて分かるから、私、邪魔じゃないかなぁって思って」
「その言い方は変な誤解されるからやめてほしいっス。ま、確かにテニス部の中じゃ、色々話せる先輩だけど」
 そうだよね、と静は一度頷いた後、
「私、今までずっと徒歩通学だったの。だからもし遠慮してるなら気にしないで、また二人で一緒に帰っていいんだよ?」
 優しく微笑みながらそう伝えた。
 恋人という存在が現れただけで彼ら二人の仲が簡単に壊れるわけはないという確信はある。それでも自分が桃城の傍にいることによって、彼らの距離が少し遠ざかってしまうのは寂しいと感じてしまうのだ。
「その感じだと、桃先輩から何も聞いてないんだ」
「……何も、って?」
 静の提案に、しかしリョーマはYESともNOとも答えず、逆に静の方へ質問してくる。
 まぁ、言えるわけないか。と一人勝手に納得するリョーマ。静の方は理解が及ばない。
「先輩の家、歩きだと少し距離あるんでしょ」
「えっ? う、うん」
「部活が終わるの、結構遅くなること多いッスよね」
「確かにそうだけど……」
 どうしてリョーマが知っているんだろう。というか、どうして急にそんな話に?
「桃先輩、広瀬先輩が一人で帰るの心配だから送り迎えしてるって言ってましたよ」
 ますますクエスチョンマークに頭の中を支配されていく静に、リョーマはにやりと笑ってこう言い放った。
「……本当? そんなこと、武くんから一言も――」
「嘘だって思うなら、本人に聞いてみれば? ……ね、桃先輩?」
「えっ?」
 桃先輩、の名前に振り向くと、そこには少し離れた先にある木の下で、こちらを見つめる恋人がいた。
「なっ……気付いてたのかよ……」
「いや、自転車あるのに気づかないわけないでしょ」
「うぐ…………」
 静は背を向けていたから気付かなかったが、確かにその傍らに自転車を止めていたら『隠れている』とは言えない。
 それは本人も分かっていたのだろう。リョーマのツッコミに気まずそうな様子で自転車を押しながら、静たちの元へやって来る。
「越前くんが言ったこと、本当?」
「はっ!? い、今言わないといけないのかよ?!」
「本当かどうかだけ聞きたいな」
「………………おぅ」
「ふふ、そうだったんだ。ありがとう、武くん」
 絞り出されたのは小さな小さな、短い答えだった。
「へぇ? 桃先輩、意外と奥手なんスね」
「う、うるせー! 別にお前には関係ないだろっ」
 いいネタを見つけたと言わんばかりに先輩をからかうリョーマに桃城は目を逸らしながら反論するが、いつもの溌溂さはない。
 そんな桃城の珍しい様子にやはり気を良くしたのか、リョーマは目を細めた。
「ってなわけで、広瀬先輩の気持ちは嬉しいけど遠慮しとく」
「そっか、うん。ごめんね、それにありがとう。越前くん」
「別に。それじゃ、先輩達。お疲れ様ッス」
 静の方へ向き直り、軽く手を上げて去っていくリョーマを二人で見送る。
「……ったく、越前のヤツ余計なこと言いやがって……」
 後輩の姿が完全に見えなくなった途端、恥ずかしさからかぶつぶつと後輩に対して文句を連ねる恋人の顔を覗き込む。
「ううん、余計なことなんかじゃないよ。すごく嬉しかった。武くんがそんな風に私のこと心配して、考えてくれてたなんて知らなかったから」
「そ、そりゃ……テニス部は遅くなる日が多いし……そんな中、お前一人で帰らせられねぇだろ……」
 静の視線を受け止めつつ、頭を掻きながら言葉を紡ぐ桃城に、静はくすり、と微笑んだ。彼は普段とても器用だけど、こういう部分に関しては不器用なのだ。
「うん、本当にありがとう。……でも武くんの口から伝えてくれたら、もっと嬉しかったかな?」
「あー……悪かったよ。つ、つーか、ほら、早く乗れって。帰るの遅くなるだろ」
「ふふ、うんっ」
 首を傾げて最後に冗談っぽく言うと、桃城は誤魔化すように自転車の後ろへ視線を向ける。これ以上追撃をすると、きっと怒らせてしまうだろう。
 静は大きく頷いた後、後輪のステップに足をかけて愛しい広い背中へ手を伸ばした。