きみがそこにいる幸福(祐太×静)

『ちゃんと俺を俺として見ててくれた人もいたぜ』
 青学にいた頃のことを訊ねた時。
 “不二弟”じゃなく、ちゃんと名前で呼んでくれていた人もいると聞いて、会ってみたいと思った。
 少しの間でも、裕太くんのことを「裕太くん」としてありのまま受け止めていてくれていた人。それはどんな人なんだろう――いつか会えたら話してみたい。
 その時は、そう考えていた。

 学園祭初日の昼下がり。皆の手伝いをしようとルドルフ喫茶へ向かうと、入口に赤澤先輩、そして黒髪の男の子とセーラー服の女の子が立っていた。先輩と男の子が談笑しているのを、隣の女の子は眺めている。
(あ、あの子……)
 その子の後ろ姿には見覚えがあった。彼女は青学テニス部担当の運営委員の子だ。会議では毎回顔を合わせていたし、何回か話したことがある。
 担当が同じテニス部であり、また出し物も喫茶店という共通点もあって、お互い頑張ろうねと声を掛け合った。時間があったら相手の喫茶店に行く、とも約束した。
 ――約束、守ってくれたんだ。
 嬉しくなって、彼女の名前をひとつ呼びながら駆け寄ると、その子も笑って私を迎えてくれた。
「来てくれたんだね」
「もちろん! 素敵な喫茶店だね!」
「ありがとう。中に入る?」
「あ、それが……」
 言葉を濁しながら、彼女はちらりと隣に目を向ける。視線の先は、彼女と一緒に学園祭を見ているらしい男の子がいた。
 さっき赤澤先輩から店に寄っていくかと誘われたけれど、彼――越前リョーマくんが断ったらしい。
「やっぱり入ってもいい?」と彼女が問いかけると、越前くんは優しい声で「先輩が入りたいなら」と頷く。クールな外見とは違って、彼女に向ける表情はとても柔らかかった。
 ぱっと顔を明るくしたその子に私は微笑むと、中へ招く。
「いらっしゃいませ……ってお前……」
「どーも」
「知り合い?」
「ああ。都大会で戦ったんだ」
 店内で私達を出迎えてくれたのは裕太くんだった。だけど、越前くんの姿に彼の笑顔が一瞬凍りつく。
 なんとなく分かっていたけれど、やっぱり越前くんもテニス部員だったみたい。不敵な笑みを浮かべる彼に裕太くんは小さな溜め息を吐いてから、私を見て口を開いた。
「それより、お前はどうしたんだよ?」
「私は手伝いに来たの」
「そうなのか。ありがとな」
「……不二、くん?」
「えっ?」
 そんな中、彼女はじっと裕太くんのことを見つめていて。どうしたの、と声をかけようとした瞬間、ぽつりと彼の名前を発した。
 彼女の発言に、その場にいた全員が驚きに目を見張る。その中でも、名前を呼ばれた裕太くんが一番戸惑いを見せていた。
 知り合い……なのかな。
 けれども裕太くんは、彼女がどうして自分の名前を知っているのか本当に不思議そうだった。呼んだ彼女も自分のした行為に対して、若干不安そうな顔。
 そこで、私はふと思い出す。彼女が青学のニ年生であること。そして彼が一年前までは青学に在籍していたことを。
 もしかして……。
「確かに俺は不二だけど……」
「覚えてない、かな。一年前、青学にいたよね? 私、同じクラスメイトだった――」
「あ……」
 クラスメイトという一言で、裕太くんはその頃の記憶を探し当てたようだ。思い出してくれたこと、そして裕太くんに再会できたことに彼女は顔を綻ばせる。
 久しぶりだねと彼女が笑うと、彼もおう、とぎこちなく返事を返した。
 灯台下暗し、はこのことかもしれない。彼女と裕太くんが元クラスメイト同士という可能性は充分あったのに、どうして考え付かなかったんだろう。
 準備期間中、私が目撃した――男の子達と会話している――時とは違って、二人の雰囲気は穏やかだった。
 この学園祭がきっかけで知り合ったばかりだけど、彼女がいい子なのは分かる。この子は裕太くんが誰かの弟だからと言って、絶対からかったりしない。
 ――私が会いたいと思っていた人は、彼女なのかも。確信もないのに、そう思えた。
「……先輩、この人と知り合いなんだ?」
「うん。一年生の時に同じクラスだったの」
「ふーん……」
「と言っても、たった半年だけどな」
「そうだね。ルドルフに転校したって話は聞いてたけれど、元気そうで良かった」
「あー、うん。まぁな」
 だけど、何故だろう。笑い合っている二人を見るのが何故だか辛くて、思わず視線を逸らしてしまう。
 クラスメイトだった男の子達に“不二弟”と呼ばれていた時の、苦い表情が忘れられなかった。
『裕太くんは、青学で『不二弟』って呼ばれ方だけしかされてなかったの?』
 失礼なのを承知で訊ねた私の言葉に、裕太くんはそんなわけがないと笑って答えてくれた。それを証明するかのような光景は、嬉しいはずなのに。
 二人の会話が盛り上がるのに反して、私の心は沈んでいく。
「広瀬?」
「広瀬さん? どうしたの、大丈夫?」
 一言も喋らない私に、視線が集まっていた。心配そうな眼差しを向ける二人にこれ以上心配かけたくなくて、笑顔を作って答える。
「……うん、大丈夫」
 そう言った瞬間の、彼女の安堵した表情や裕太くんと並んだ姿に、ますます胸のもやもやが増えた気がした。

 *****

(あれはやきもち、だったのかな……)
 バタバタと忙しなく、それでも充実していたあの学園祭の日々を思い出すと、脳裏に蘇るのはまだ自身の感情に鈍かった自分だった。
 学園祭終了後、裕太くんと付き合うことになって、私はようやく胸で渦巻いていたものの正体の名前を知る。
 仲良さ気な二人の様子に、裕太くんの過去を知っているあの子に、嫉妬していただけ。
 私も青学にいたなら……なんてことをうっすらと考えたことも思い出して、思わず苦笑してしまう。
 ルドルフにいなければ、裕太くんとこうやって一緒に歩けていなかったかもしれないのに。
 黙っている私を不審に思ったのか、裕太くんが私を呼ぶ。
「どうした?」
「ううん、なんでもないの」
「そうか? なんでもないって顔じゃなかったぞ」
 何かあるなら話してみろよ、と言われて少し悩んでしまう。今更だけどあの頃聞いてみたかったこと、今なら答えてくれるかな。
 ――うん。思い切って聞いてみよう。心の中で一つ頷いて、口を開いた。
「あのね。一つ質問してもいい?」
「ん? なんだよ」
「もし、あの子が裕太くんのことをずっと理解してくれていたら……青学に残ってた?」
「あの子?」
「学園祭の時に会った、青学の運営委員の子」
「な、なんだよそれ。っていうか、なんでいきなりそういうこと聞くんだよ?」
 やっぱり、というまでもなく私の問いに、裕太くんは眉を顰めた。
 撤回すればこれ以上困らせることもないけれど、気になっているのが私の本音だった。
「ごめんなさい。でも、あの時から気になってたの。仲良さそうだったから」
「そんなことはないと思うけどな。だって一緒のクラスだったって言っても、話すことは少なかったし」
「そう……なの?」
「ああ」
 それでも……お互いのことを覚えていたのには、きっと理由があるはず。不安を拭えない私を納得させるように、裕太くんは話を続ける。
 席が隣同士だったこと。不二さんの弟だからと騒いでいた女の子達とは違って、ちゃんと名前を呼んでくれていたこと。そして……ラケットを持っているのを見て「テニスするの?」と聞いてきたあの子に、怒鳴ってしまったことがあること。
 それ以降、交わした言葉は少なくなってしまったと言う。裕太くんがルドルフに転校を決めたのは、それから少ししてからだった。
「あの頃の俺って、本当に余裕がなかったんだ。ルドルフに転校して、皆に出会うまでは……」
「うん」
「だから例えそうだったとしても、俺が選択した未来は変わらなかったと思う」
「そっか……」
「それに……前にも言ったけどルドルフに来てなかったら、お前にも会えなかっただろうし、さ」
 顔をほんのり赤くさせて呟かれた言葉に、私も一緒になって頬を赤く染める。
 あの日から心にあった重りのような疑問。介入できない過去に対する嫉妬。感じなくなることはなく、きっとこれからも胸を燻られると思う。
 けれどそれが、現在の裕太くんを形成していて、そして私の隣にいてくれる結果なら、全部受け止めていきたい。
「――私も」
 今の気持ちを音に乗せる言葉はたった一つ。何度目かは分からない。だけど何度も伝えたい思い。
「私も、裕太くんに会えて良かった」
 音に乗せた感謝と愛しさに、彼は照れくさそうに笑った。

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