引き千切られた恋慕(荒井→静)

朝練前の準備運動をしながら、荒井はそわそわしていた。誰かを探しているようにキョロキョロと辺りを見回す。
 その顔は、仲のいい友人達や後輩に見せる悪どいものではない。彼のそんな様子を、隣で友人達は何も言わずに見つめる。
「……な、何だよ。何じろじろ見てんだよ!」
 視線に気付いた荒井は、だらけた顔を引き締めて怒鳴った。が、付き合いの長い彼らには効かない。
「いや、別に……な、林」
「ああ、気にすんなって。な、池田」
「別にって、気になるじゃねぇか! き、聞きたいことがあるならちゃんと言えよ!」
「いや、だから別にいいって」
 そう、彼らは聞かずとも分かっていた。自分達の友人が何を探しているのか、そしてそれを見つけた後の反応が。
 ――だからこそ、本日も見せられるであろう彼の情けない姿を予測して、呆れながら様子を伺っていたのだが。
「おいおい。お前ら、何してんだよ」
「!」
 そんな彼らの背後に、突然声がかかる。
「なんだ。桃か」
「部長に見つかったら、走らされるぜ?」
「そ、そうだな」
 どうやら手が止まっていたらしい。ちゃんと手、動かせよと桃城が注意しに来た。注意、と言っても、おどけた感じなのが彼らしい。2人はへらっと笑って、準備運動を再開させた。
 ……が。
「な、なぁ。桃城」
「ん?」
「ひ、広瀬さんがまだ来てないけど、何かあったのか?」
 深刻そうな顔で、荒井は桃城に問いかけた。
 ああ、そういや……と、桃城はそこで彼が言う少女がまだ来ていないことに気付き、そして
(……全く、いつも飽きねぇよな。ホント)
 と、心の中で溜め息をつく。
「ああ、広瀬なら遅れてくるって言ってたな、そういや」
「……っ?! ばっ、なんで俺に教えてくれねぇんだよ!!」
 軽い感じで伝えたのが悪かったのか、間髪入れずに彼が叫んだ。
(いや、なんでわざわざお前に教えなきゃなんねぇんだよ)
 あまりにも必死な彼の様子に、3人は同時に突っ込んでしまう。
「体調悪いのか?! それとも、事故とか……?!」
「違うって。大したことじゃねぇから」
「じゃあ、なんで……っ」
 そう聞かれて、桃城は眉をしかめた。
(……言った方が、いいか……?)
 静が遅れている理由を、正直に。しかし、彼が静のことをどう思っているのかを桃城は知っている。
 伝えたら、ショックが大きすぎるかもしれない。だがずっと黙っていても、じきに真実は明るみに出てしまうだろう。
 ――ならば。
「あー……広瀬が遅れてくる理由ってのは……」
「あ、ああ」
「あのな……荒井。実は、」
「桃城くん!」
 決意し、いよいよ打ち明けようとした瞬間――息を弾ませた静の声が聞こえた。
「ふぅ……ごめんなさい、遅れちゃって」
「あ、ああ。いや、早かったな」
 タイミングがいいのか悪いのか分からない静の登場に、桃城は複雑な気持ちになる。それを知らない彼女は、桃城の横で突っ立っている3人に笑って声をかけた。
「おはよう、荒井くん。池田くん。林くん」
「ちっす!」
「はよ」
「お、おはよう、広瀬さん」
 挨拶を返しながら何事もなさそうな静の姿に、荒井はほっとする。だが、彼が考えていた最悪の想像は想像でしかなかったことに関しては嬉しいが、やはり些か気になる。桃城が言いかけた言葉の続きが。
「め、珍しいっスね。遅刻なんて」
 思い切って何気なく聞いてみると、途端に彼女の表情が曇ってゆく。
「あ……うん。ごめんね。準備、手伝えなくて」
「そ、そんなことは気にしなくてもいいっスよ! 俺だってたまにはぎりぎりまで眠ってたいと思うことあるし!」
 励まそうとした大げさに言うと、静はくすくす笑った。荒井の気遣いは嬉しいものだったらしい、
「ふふ、ありがとう。でも、リョーマくんにはもうちょっと頑張って欲しいかな」
「…………え」
 微笑みにドキリとしたのもつかの間、荒井は突然出てきた名前に戸惑いを覚えた。
 ――リョーマ……くん?
 それが誰なのかすぐに思い当たらず、間抜けな顔をしている荒井の視界に、白い帽子が入った。
「……余計なお世話っス」
「越前っ!?」
 眠たそうに欠伸をしつつ、静の言葉に不満を漏らす彼は、荒井もよく知っている人物――越前だった。
 先輩を敬うことを知らない生意気野郎。なのに、テニスだけは上手い奴。
 半年前、舐めてかかったお陰で随分やられてしまったものだ。それ以来、荒井はリョーマのことを敵視しているのだが、当人には挨拶されないどころか、忘れられている感が否めなかった。
 そして荒井の思った通り、リョーマと視線がかち合ったが、彼はすぐに視線を外して静に向き合う。
「先に行ってていいって、俺言ったじゃん」
「もう。別にリョーマくんを怒ってるわけじゃないよ?」
「そんな風には聞こえなかったけど」
 喧嘩しているように聞こえるが、存外その声は柔らかい。無愛想なリョーマの表情は文句を言いつつも穏やかで、静は若干拗ねたような顔だ。彼女のそんな表情に、荒井は驚いた。
 彼の中の静は、いつもにこにこ笑っているイメージだった。勿論、怒る時も泣いてしまう時も彼女にはあるだろうが、荒井は笑顔の静しか見たことがない。
 静がリョーマに見せているそれは、彼女が奴に気を許している証拠のように思えて――そして、荒井はある可能性にたどり着いてしまった。
(まさか……)
「おーい、越前ー!」
「堀尾くんが呼んでるよ?」
「うるさいのが来た……」
「リョーマくん」
「はいはい」
 諭されて、渋々リョーマは同級生の方へ向かう。それを見送ることはせず「私達も行かなきゃいけないね」と、静はにっこり笑って後をついて行こうとした。
「あ、あの、広瀬さん……っ」
「えっ?」
 声を振り絞って呼び止める。聞くなら今しかないと思ったからだ。
 目の前で交わされた会話から「二人が一緒に登校してきた」事実は理解し、納得できた。そしてそれ故、遅刻は常習犯に近いリョーマを待っていて、静も遅れてきたらしい。
 荒井が先ほど聞きたかった理由は解けた。しかし、そうなった訳には更なる理由があるはずだ。何故、静はリョーマを待っていたのか、という疑問にも答えにも。
「どうしたの?」
「あ、いや、その……」
「……?」
 当たって欲しくない結果を言葉にするというのは、なんとも苦しいものだ。だが今それを避けても、ずっと気持ちは悶々とするだろう。
 ただの杞憂かもしれない。考えすぎかもしれない。そんな一縷の望みにかけて、荒井は口を開いた。
「え、越前と仲がいいみたいっスね!」
「……そ、そうかな?」
 恥ずかしそうに「そんなことないよ」と言ってくれる。と思いきや、静は照れたように笑って聞き返してきた。
 見えない。いや、そういう風に見えたくない! と、否定したくなるのをぐっと我慢して、荒井は言葉を続ける。
「越前と一緒に来たみたいだったんで……」
「あっ、うん。本当は先に行こうかなって思ったんだけど、寝ぼけたままのリョーマくんを放っておけなくて」
 本当に遅刻しかねなかったし、と答える彼女は、微笑ましそうにリョーマの後ろ姿を見つめた。
 まるでリョーマの遅刻癖を以前から知っているかのような口振りに、乾いた笑いしか出てこない。ドクン、と心臓がいやに大きな鼓動を打つ。
「へ、へぇ~。実は越前と付き合ってたり?! なーんて……」
 事実として明るみに出てきそうなそれを振り払うかのように冗談っぽく、そして半ばやけくそに核心をついてみた。
「…………うん」
 いっそ怒ってくれても良かった。ただ、否定の言葉が欲しかった。だけど勇気を出して開けた先にあったものは、頬をほんのり桜色に染めた静と、信じたくない事実。
「……まだ誰にも言ってないの」
 ――もしかしたら桃城くん達は既に知ってるかもしれないけど。眉をしかめて、ちょっと困ったように首を傾げて、そして。
「でも、荒井くんにだけ。……まだ内緒ね?」
 口元に人指し指を添えて、可愛らしく微笑む。その照れたような笑顔は荒井がいつも近くで見たいと思っていた表情だったが、彼は反応できなかった。
 憧れの彼女の隣に立つのを許された奴が、突如として現れたこと。それがよりにもよって、気に食わない“越前リョーマ”であったこと。
 静の口から一番初めに打ち明けられた言葉は、荒井の心をざくざくと刺していく。
「全員、集合!」
 数メートル先から部長である手塚の号令が聞こえると、「行かなきゃ」と静が慌てて走っていった。ただ呆然と立ち尽くす荒井に、気付かぬまま。
「……ど、どんまい。荒井!」
「……ま、まぁ、そう落ち込むなよ。なっ!」
 どこかから見ていたのだろうか。いつの間にか側にいなくなっていた友人達は現れると、そんな言葉を通り際に呟いて肩を優しく叩く。
「…………うっ……」
 その行為は荒井を余計に惨めな気分にさせて、とうとう彼の足元はおぼつかなくなる。泣き崩れそうになるのを、慌てて桃城が支えた。
「あ、後からじっくり聞いてやるからよ……。ほら、今は走れ!」
「そ、そんなことって……うっ……うううっ!!」
 直後、彼の泣哭がテニスコートに響いた。