胸焦がす指先(財前×静)

何が彼の機嫌を損ねたのか分からなかった。振り向いてくれないのはそれが関係してるからなのに。
 そのまま今日になってしまったので、とりあえず待ち合わせ場所に向かう。既にそこに立っていた彼に努めて明るく「おはよう」と言っても、返ってくるのは心無い言葉だけ。
 胸の中に小さくあった不安が風船みたいに膨らんで、私を支配しようと形を変えていく。俯いていると「はよ行くで」と声をかけられ、慌てて着いていった。
「今日はどこに行くんだっけ?」
「映画って言ってたやろ」
「あ、そっか。最近上映が始まったやつだよね」
 めげずに話しかけながら隣に並ぼうとするけれど、財前くんの歩くスピードはいつもより早い、ように思えた。
 ううん、勘違いなんかじゃない。彼は怒ってる。
 手を繋ぎたいななんて、淡い期待以前の話だ。「待って、財前くん」と裾を掴もうと慌てて走ったら、地面の窪みに引っかかって転んでしまった。
「い、たっ……」
「何してんねん、鈍くさいヤツやな」
「ご、めん……」
「俺に謝ることちゃうやろ。はよ立たんと、通行の邪魔やで」
「うん」
 一度振り返ってくれたかと思うと、私が立ち上がるとすぐ歩き始めていく。その背中に無性に悲しくなって。
 かすり傷だけなのに膝もひりひりと痛み出した気がして、目の奥が熱くなっていく。「土曜、映画行かへんか」と誘ってくれた数日前は財前くんも笑ってくれていたのに。
 彼の姿が人混みの中に消えていく。早く追いかけなきゃって思う心とは裏腹に、足は今来た道を引き返していた。
(何、やってるんだろ。私……)
 今日は文句なしのお出掛け日和。一緒に歩きながら他愛ない話をして……。沈黙が多いけれど楽しい時間を過ごせる、と思ったのに。
 私の隣に彼がいない。彼の傍に私はいられない。
「財前くん……」
 振り返ってもそこに財前くんはいなかった。

*****

 適当に入ったビルは七階建てのショッピングモールだった。此処には1度だけ財前くんと入ったことがある。
 やっぱり婦人服を扱っている店が多いことだけあって、中は友達や彼氏などと談笑しながらショッピングを楽しんでいる女の子で溢れていた。
 私はエスカレーターで2階に上がり、店内を通路からちらりと覗くだけ。店員さんの明るい声が迎えてくれるけど、中に足を踏み込む気にはなれなかった。
 1人寂しくぽつぽつ歩いていると、仲良さげに手を繋いで店内を見て回っている恋人達もいれば、女の子の後ろでそわそわしてる彼氏らしき人もいるのに気付く。
 なんだかキョロキョロしていて、心なしか恥ずかしそう。
(そういえば……)
 と、ふと前回此処に来た時、店内に入って商品を見る私の後ろで財前くんはただぼーっと立っているだけだったことを思い出す。
 その時はどうしたの? なんて聞いてしまったけれど、もしかして財前くんもあの人と同じ心境だったのかも。
 そう思うと彼を気遣えなかった自分が情けなかった。デートだから浮かれていたとは言え、相手を置いてきぼりにしちゃダメだったのに。
 ますます気分も沈んで、足取りも重くなる。そんな私の耳に入ってくるのは対照的なポップな音楽と和気あいあいとした笑い声。
「はぁ……」
 人混みから遠ざかりたくなった私は通りかかった近くに休憩所として設けている場所を見つけたので、腰掛けた。
 疲れてなんかいないのに、足がずっしり重い気がする。思わず溜め息が零れた。
 これからどうしよう。財前くんを追いかけるにしても、今からじゃ間に合うわけない。
 それにこの辺りは私1人じゃ来たことないから、かなりの確率で迷子になりそう。駅までの道のりなら覚えてるから、帰りはとりあえず心配ない、と思うけど。
 じゃあ、大人しく帰るべき、だろうか。此処にいつまで居たって意味はないんだから。……そう思うのに身体はその場を動こうとしなかった。
『勝手にいなくなったんはお前の方やろ。何で俺が探さなあかんねん』
 財前君はきっと、さっきよりも眉間に皺を寄せて思ってるに違いない。易々と想像できて、ちょっと笑ってしまった。
 いつも彼は私の予想を裏切らない態度ばかり。
 私がドジしたりすると、決まってちくちくと言ってくる。「アホ」だとか「何やってんねん」だとか。そんな彼に言い返せなくて言葉に詰まった場面も多々あった。
 だけど、最後には必ず手を差し出してくれた。
『財前くんの思ってること、ちゃんと知りたいから』
 言葉でも、態度からでもいいから気づかせてね。
 そう言ったのは私。飄々としてて、あまり表情を変えない彼の機微を分かりたいと思ったからだ。
 けどいざ言われたら、きっと私は傷ついちゃうんだろう。あっ、ごめんねって顔をしちゃうんだろう。
 私がそんな顔をするだろうから、財前くんは何も言ってくれなかったのかな。ううん、私がその理由に気付かないといけないのかもしれない。
 数日前の記憶を掘り出してみる、けど。財前くんが怒ったきっかけは見当つかなかった。昨日の帰り道ではもう不機嫌だった、気がする。
 ――やっぱり。
「分からないよ、財前くん」
 私が手を離しても、後ろを歩いていても、財前くんが気にする素振りは見たことない。
 一緒にいたいと思ってるのは、もしかして私の方だけ? と、今まで不安になることがなかったと言えば、嘘になる。突き放さないからって、私が甘えているのかもって。
 でも、それを直接彼にぶつけられなかった。言葉にしたら壊れそうで、嫌われそうで――怖くて。
 なのに、こうやって此処を動かないでいるのは、どこかで期待してるから?
 追いかけてきてくれるかな。探して欲しいな。私のこと見つけて、って。自分の気持ちも伝えられないのに、求めてばかりいる。察して欲しいって思ってる私がいる。
 そんなことじゃ、ダメなのに。
「……バカだな、私」
「――ホンマやで」
「っ?!」
 ぽつりと呟いた私の独り言に、返ってきた言葉。聞き覚えのある声に驚いて後ろを振り返ると、財前くんがこちらを見下ろしていた。僅かながらも息を切らしている。
「ざ、いぜん、く」
「何やってんねん、自分。迷子になりたかったんか」
 私の願いは叶ったけれど、予想も裏切られることはなかった。冷たい声が私の頭上から降り注ぐ。
「……ごめんなさい」
「ちゃうやろ」
「えっ?」
「謝る前に、俺の質問に答えや。何で1人で勝手にいなくなったんや」
「……」
「……答えたないんか」
「っ、そうじゃなくて……っ」
 答えようにも、なんて言ったらいいのか分からない。言葉を上手く紡げない。なのに「じゃあ、何でやねん」と、財前くんは更に追求してくる。
「理由もなくていなくなったりするんか。それとも……俺が嫌いになったんか。やったら……」
「! そんなことないよっ!」
 思わず声を荒げて顔を上げると、彼の真っ直ぐな視線とぶつかる。その瞳はさっきまでの不機嫌さや声に含まれてるイライラはまるでなくて、少し悲しそうに見えた。
「俺、自分の考えてること、よう分からんわ。思っとること、何も言わへんし」
「違っ――」
「俺がイラついとんの分かっとるはずやのに、理由聞かへんし」
「それ、は……」
「ホンマ、ムカつくわ。自分」
「……っ」
 言い終わると財前くんはそのまま黙ってしまった。ここで沈黙が続いてしまうとまた置いてけぼりにされそうで、急いで手を伸ばした。彼の手を掴む。今度は離れていかなかった。
 言わなきゃ。今、言わなきゃ。彼はずっと私に気付かせようとしてくれてたから。こうやって私に本音をぶつけてくれたから。次は私の番だ。財前くんの冷たい指先をぎゅっと強く握る。
「でも、私が思ってること、言ったら財前くんに、嫌われちゃうんじゃないかって」
「言ってみんことには分からんやろ、そんなこと」
「手を繋ぎたいとか言ったら、鬱陶しがられるかも。もっと言葉が欲しいって求めてもし我儘なヤツだって思われたらって考えたら、怖くて」
「鬱陶しいとか思わんし、それで我儘やったら他のヤツらどうなんねん」
「……」
「それぐらいで自分のこと嫌ったりすると思ったんか。そんなんやったら、最初から好きになってへんわ」
「――財前くん……」
「自分、俺に遠慮し過ぎやねん」
「……だから、怒ってるの……?」
 財前くんの言うことに頷く代わりに、私が自分の意見を呑んでいるから? 良い子の振りしてるから? 感情をぶつけることを怖がってるから?
「相手のこと分かりたいって思うの、自分だけやないっちゅーこと、知らんやろ」
「え……、」
「俺のとこにはずかずか入り込んでおいて、自分は壁作って……そういうの、見てて腹立つんや」
「……ごめんなさい」
「やから、せやのうて」
「きゃっ?!」
 いきなり、強い力で身体を財前くんの方に引き寄せられる。財前くんは気にせず、会話を続ける。
「もっと口に出せって言ってるんや。俺の事とやかく言っておいて、自分がだんまりしててどないすんねん」
「――……うん」
 彼は決して言葉数が多い方じゃないから何を思ってるのか探りあぐねちゃうし、棘のある言い方に傷つくこともある。
 ううん、そうじゃない。違うの。財前くんは優しい。上辺だけの冷たい言葉の下にある温かさを私は知ってた。
 初めて会った日からずっと惹かれてるのは、彼が優しい人だから。見え隠れするそれは彼が不器用な人だからと分かってたはずなのに。
 なのに、2人の間には距離があるって思って落ち込んで、彼の心を覗くことに躊躇って、いつの間にか顔色ばかり窺うようになってたのは、距離を離していたのは私の方だった。
「財前くん、ごめんね。ごめんなさい」
 気付けなくて。逃げちゃって。
「自分、今日そればっかりやな」
 彼が呆れたようにそう言った。さっきまでの暗い雰囲気がそれに流れていった気がして、私は思わず笑みをこぼしてしまう。
 掴んでいた左手への力を弱めると、ゆっくりと指先が絡まった。あ、今手を繋いでるんだ。そう意識してしまうと、なんだか嬉しくて恥ずかしくて、泣きそうだった。
 真っ赤になってる耳も頬も、涙が今にも零れそうな目も財前くんに見られたくなくて、頭(こうべ)を垂らしたまま私はこう返した。
「でも今は言いたいの。――ごめんね、ありがとう」
 その瞬間、彼の右手が頭を優しく撫でてくれたので、私はもう何も言えなくなった。

title by : hmr
イメージソング : 藤田麻衣子「土曜日、ゆずらない私」