おや子猫、どこへ行く?(手塚×静)

 関東地区合同学園祭に青春学園が参加することになってから、数日。
 紆余曲折あり、綿菓子屋の模擬展のメンバーになった手塚国光は、八月も終わりに近づいているとは言え、まだまだ太陽が輝き気温も高い中、涼しい顔――本人はそんなつもりではないのだが――である人物を探している最中だ。
 その人物とは一週間前に初めて顔を合わせ、それから今日まで学園祭準備を共にするテニス部運営委員・広瀬静である。彼女に訊ねたいことがあって、この広大な学園祭会場を歩いているのだが、朝にミーティングで少し話した後、運営委員会議があるからとパタパタと忙しなく走っていった背中を見送った以降は姿を見かけず、先日交換した連絡先に電話をかけているのだが繋がらない為、手塚自ら探しているのだが、なかなかどうして見つからない。
 何か急ぎの用事を済ませているのか、着信音に気付いていないだけか、それとも何かあったのか――と静が電話に出ない理由を考えつつ、本館を出てまっすぐ歩いた先にある広場へ移動する。
 広大な学園祭会場にある、これまた広い憩いの場。中央の噴水で涼んだり、または四隅に設置されているベンチで話し込む様々な制服に身を包んだ生徒が数人程いるものの、肝心の人物はいないようだ。
 さてどうしたものか、と手塚はひとりごちた。噴水の側に立つ時計へ目をやる。アトラクションのミーティングがあと三十分程で始まるのだ。緊急の用件ではないし、次に顔を合わせた時に聞けばいいとも思う。だが、手塚の性格上解決するべき、できるべき案件を放置するのはどうにも苦手だった。
 なんて考えあぐねて立ち止まった手塚の視界の隅に、その後ろ姿は不意に映った。
 セミロングの髪、青学の女子制服に身を包むその人物は、ベンチの後ろの茂みを前にして座り込んでいる。
「――広瀬」
「っひゃい!?」
 少し早歩きで近づき、彼女の背後から声をかけると、静は素っ頓狂な声を出した。
「あ、手塚先輩……! ど、どうしたんですか?」
「模擬店のことでお前に相談したいことがあって探していた。その前に電話も何度かかけたんだがな……」
「えっ!? あっ……着信音消してました……」
 勢いよく立ち上がるや否や、慌ててスカートのポケットから携帯電話を取り出し、着信履歴と着信音の設定を確認するその顔は真っ青だ。
「本当にすみません! お手数をおかけしてしまったみたいで……!」
「今後気を付けてくればいい。それで、今時間はいいか?」
「はいっ、もちろんです」
「明後日の作業についてなんだが……」
 話を切り出すと、静は側に置いていたファイルを手に取り、スケジュールを確認し始める。
 明後日も当然ながら各模擬店の準備作業が組み込まれているが、全国大会直前に全体練習とミーティングをしておきたいと顧問から連絡を受けたので、学園祭準備の開始時間をずらしてもらいたい旨を伝えた。
「分かりました。その日はそれぞれの模擬店の準備だけですし、恐らくこちらで変更しても問題ないと思いますが、後で運営委員会に伝えておきます。万が一、不都合があればまた相談させてもらってもいいですか?」
「あぁ、それで頼む。……急ですまないな」
「いいえ、大丈夫ですよ」
 手塚の声にしっかり耳を傾けながら、自ら用意したのだろう――小さなノートにその内容を書き込んだ後、スケジュールを再度確認してから、静はしっかりと頷いてそう答えてくれる。
 数日前から交流し始めたが、広瀬静という人物が青学テニス部の運営委員で良かったとつくづく思う。真面目で礼儀正しい後輩であるのは勿論のこと、こういったイレギュラーなことにもしっかりと対応してくれる。しかしそれ故に運営委員の仕事に夢中になって倒れたこともあって、危なっかしくてもあるのだけど。
『気になる女の子はいますか?』という、脈絡のない静からの問いかけに対して、そう言った意味では気になる存在ではある、と答えたのは記憶に新しい。

 ――本当にそれだけかな?
 ふと、何かを含んだような声が脳裏を過った。いつも柔和な笑みを湛えている、ある友人の顔が浮かぶ。
『彼女が気になっているのは、本当にそれだけかな?』
『何が言いたい?』
『心配っていうだけで、ただ数日前に出会った女の子のことを口にするのは普段のキミからは想像できないってことだよ』
 そう言った不二とは一年生からの付き合いで、手塚の大切な気のおけない友人だ。テニスプレイヤーとして“天才”と呼ばれる彼は人の機微にも聡く、柔軟な考え方をするので手塚自身ははっきりと相談を持ち掛けはしないものの、手塚が密かに悩んでいることを察してアドバイスをさりげなく伝えてくれる。
 だがまさか、「広瀬が奇妙なことを訊ねてきた」と話題にしただけでそんな指摘をされるとは思わず、手塚はとても驚いたが、そこで部の後輩から声がかかり二人の会話は中断した為、彼が何を言おうとしているのかまでは掴めなかった。いや、最後まで話をしていたとしても、不二が自分に何を伝えようとしてくれたのか理解できたかは定かではない。優しい笑みを湛えている彼だが、どうにも人をからかう癖があるのだ。

「…………」
「手塚先輩? 大丈夫ですか?」
 急に考えに耽り出した手塚を不審に思った静が声をかけてくる。あぁ、平気だ、と答えた手塚に「そうですか……?」と不安気な表情を見せる静だったが、
「それよりも、お前はこんなところで何をしていたんだ?」
「えっ、あ……それは……」
 そう問いかけると、不安気な表情がますます濃くなった。しかし先輩に隠し事をするわけにはいかないと判断したのか、まだいるかな……、と小さく呟いたと思ったら、先程手塚が見かけた時のように静は座り込み、茂みの中を覗く。手塚も膝をついて、一緒に中を覗き込むと。
 こちらを怯えた目で見つめる小さな、白い毛に包まれた生き物がいた。
「猫、か」
 正確には子猫――まだ生まれて数カ月程に見える――と呼ぶべきだろうか。
「この広場周辺が縄張りの猫がいるので、多分その子供なんだと思います」
「よく知っているな」
「確信してるわけじゃないんです。でも、ここで休憩している時にこの子にそっくりの白い猫をよく見かけてたので」
 子猫をこれ以上警戒させないように、という配慮だろう。静がひっそりとした声で説明するので、手塚も自然と小声になる。
「親とはぐれてしまってるなら、なんとか返してあげたいなって思って。でも無理やり引っ張り出すのも可哀そうだし、何よりも人間の匂いをつけるとよくないって聞くので……。さっきはじっと待っていたら、少しずつ近寄ってくれてたんです」
「……それは、俺が声をかける前か?」
「えっ」
 もしや、と思いつつ問いかけると、静はなんと返せばいいか分からない、という顔をした。
 人の機微に敏感な方ではないが、そんな手塚でさえも静の心情を察してしまえるぐらい、広瀬静は喜怒哀楽が豊かだ。感情が読めない、見えないと周りから言われることが多い自分とは異なる彼女のそういう要素を、手塚はとても好ましいと思う。
「成程。知らなかったとは言え、お前にもその子猫にも申し訳ないことをしたな」
「わ、私まだ何も言ってないですっ」
「即答しなかったのが答えのようなものだろう」
 そう返すと、うぅ、と静は恥ずかしそうに小さく唸る。
 そんな押し問答をしている二人の声で、外に興味を示したのだろうか。にゃぁ、と小さな小さな鳴き声を発しながら子猫が茂みからゆっくり姿を現した。
「出てきてくれました、手塚先輩!」
「そうだな」
 ぱっと顔を上げて報告する静に「見ていたから知っている」なんて野暮な返答はせずに、手塚は一つ頷いてみせる。
「ふふ、可愛いですね」
「……そう、だな」
 子猫は母猫が恋しいのか、単にお腹を空かせているのか、二人の足元で懸命に鳴き続けている。静はそんな子猫にすっかり夢中のようで、熱心にその動きを見つめているが、一方の手塚はやや戸惑っていた。彼の人生の中でこういった人間以外の生き物との関わりは殆どなかったので、実を言うと足を動かすのがほんの少し怖かったりする。
「先輩の近くにいると落ち着くみたいですね」
「……猫のことはよく知らないが、それはないんじゃないか?」
 二人の足元を行ったり来たりしていたのが、やがて手塚の方で立ち止まってぺろぺろと体を舐める様子に、静はふふ、とまた小さく笑ってそう言ったが、手塚には俄かに信じられない。僅かに眉を寄せた手塚の感情に優しく寄り添うように、静は一度首を振った後微笑んだ。
「騒がしさを嫌う猫って多いんです。それとこの子の場合は母猫がいなくて不安なのもあるから、手塚先輩みたいに落ち着いた人の傍がきっといいんだと思います。……私も、先輩の傍にいると安心しますから」
「……それは、どういう」
 どういう意味なのか、と訊ねるよりも早く、遠くから小さな鳴き声が耳に届く。足元にいる子猫のそれではないとしたら――と慌てて手塚と静は周りを見回したが、隠れているであろう親猫の姿を発見するのは難しかった。
 しかし子猫には親猫の居場所がすぐ分かったらしい。みゃあ、と親猫に返事をするように、もしくは二人に別れを告げるように一鳴きして、小さな四肢で向こうの茂みの方へ駆けていった。
「行っちゃいましたね」
「ああ。無事に帰れたようだな」
「はい、良かったです」
 子猫が去っていった方向を満足げに見つめる静の横顔を見下ろしながら、手塚は先程の静の言葉を思い返す。
 先輩の傍にいると安心しますから――言葉通りの意味なのだろう、と前までの手塚であれば特に思うこともなく納得しただろう。
 けれど、どうしてだろうか。そう思われているのは嬉しいと思う反面、なんだか複雑な気持ちだった。そう感じる理由に見当がつかず、静に問いかけて答えを聞けば何かしら分かるかもしれないと思ったが――。
(……やめておこう。俺自身がまず理由が分からないのなら、広瀬を戸惑わせるだけだ)
 そんな手塚の葛藤など知る由もない静は、ふと腕時計に視線を落として声を上げた。
「あっ、もうこんな時間ですね。すみません、先輩忙しいのに」
「……あぁ、少し急がなければならないな」
 手塚も時間を確認すると、静を見つけてからそこそこ時間が経過している。アトラクションのミーティングの開始まで残り十分程だ。そんなに時間が経ってしまっていたこともそうだが、それに気づかなかった自分にも驚いていた。
「俺の方こそ、お前の時間を邪魔してしまったな」
「そんなことないです。元々は私が悪かったから……でも先輩と猫ちゃんと一緒に過ごせて楽しかったです」
「……猫ちゃん……?」
「え……あ!? あっ、あの今のは忘れて下さい!」
 安堵の気持ちからか、静が思わず言ったそれを手塚は聞き逃さなかった。決して咎めるつもりでオウム返ししたわけではなかったが、静は「それじゃミーティング頑張って下さいっ」と最後に一言だけ言ってパタパタと去っていく。
 愛くるしい姿で戸惑いと、それ以上の温かさを心に灯してくれた白き猫と、様々な表情を見せ、手塚が知らないことを教えてくれながらも最後に爆弾を落としていった静。
 姿形も大きさもまるで全然異なるというのに、自身を動揺させたという事実のみだけで、手塚には二つの生き物が今この瞬間だけ同じように見えてしまうのだった。