きみが為の純情

 テニス部の練習も試合もない、とある日曜日。快晴の空の下、越前リョーマは当てもなくいつもの道をのんびり歩いている。
 本当はストリートテニスができる公園へ向かっていたのだが、ほんの数分前に向かう目的を失ってしまった。以前から桃城と打ち合いをしようと約束していたのだが、先程その桃城から連絡が入ったからである。仕事を休めない両親の代わりに弟達の面倒を見なければならなくなったという。
 わりぃ、また埋め合わせするからと謝る桃城に、気にしなくていいっスと返して、リョーマは電話を切った。久々に親しい先輩と打ち合えると思っていたのだがそういう事情なら仕方がないし、それに何も今日しか桃城と打ち合いができないというわけでもない。
 しかし、どうしたものか。折角着替えて外に出てきた以上、家へこのまま戻るのも勿体ない気がする。
 公園に行けばもしかすると、打ち合う相手は見つかるかもしれないけれど。
「え~っ、うそぉ。本当?」
「ホントだって!」
 リョーマが悩んでいると、前方から楽しそうな声と共に歩いてくるカップルが見えた。手と視線を絡ませながら他愛もない話で盛り上がっている様子はとても仲睦まじく、見ている方が妙に気恥ずかしい。
(……静先輩、何してるかな)
 すれ違った彼らの姿を見て、必然的に年上の恋人――広瀬静の顔がリョーマの頭を過ぎる。
 そういえばここ最近はテニスの公式試合や練習が重なったり、リョーマと静双方に予定が入っていたりと互いに忙しく、二人だけで過ごす機会がなかった。まだ付き合い始めたばかりだというのに、あの恋人たちのようにデートしたのはいつだっただろうか。
 まもなく現れる大通りを曲がって少し歩けば広瀬家が見える。静が家にいれば逢えるだろう。
 しかし今日のことは前々から伝えていたから、彼女もまた別の予定を入れている可能性がある。それに急遽他の予定がキャンセルになったからと約束もしていないのに突然訪ねて、静は迷惑に思わないだろうか?
 テニスでは勇猛果敢に攻めるスタイルの越前リョーマだが、初めてできた恋人への接し方はまだまだ不安なことが多い。
 それでも、考えれば考えるほど無性に逢いたくなってくる。
 こんな風に誰かを思い浮かべたり、その人の迷惑になりたくない、と思いながらも、どうしても逢いたいと考えてしまうなんて。
 知らなかったもう一人の自分と対面したような妙な気持ちになり、リョーマは小さく息を吐く。
 悩んだ末、ポケットにしまったばかりの携帯を取り出した。やはりいきなり家に押しかけるのは気が引けた。
『はい、もしもし』
 無機質なコールは5回目で途切れ、代わりに温かな声が耳に届く。
「俺だけど。うん。今、電話平気?」

 *****

「どうぞ上がって」
「……お邪魔します」
 電話で所在を訪ねると家にいるというのでリョーマはその足で広瀬家へ向かい、チャイムを鳴らした。ドアが開くとワンピースを着た静が笑顔で出迎えてくれる。
 一昨日まで学校で顔を合わせているのに、やはり私服は印象を変えるらしい。久々に見た恋人の可愛らしい姿にリョーマはどぎまぎしてしまう。
 そんなリョーマの心情など知る由もなく、静は「家族は仕事でいないからゆっくりしていって」なんて言いながらリビングへ案内してくれる。
「紅茶飲める?」
「うん」
「じゃあ淹れてくるね。ちょっと待ってて」
 通されたリビングの中央に鎮座しているソファーへ腰かけたリョーマの返事を聴くや否や、静はスリッパをパタパタさせてキッチンへ向かった。数メートル先にある対面型のその場所にて手慣れた様子で茶葉やカップを取り出し、湯を注ぐ彼女の姿はどこか楽し気に見える。
「急にごめん」
「ううん、大丈夫。はい、どうぞ」
 それでも僅かな罪悪感を覚えるリョーマに、静は笑みを湛えながら淹れたての紅茶を運んできてくれた。
「でも残念だったね。桃城くんとテニスするの、とっても楽しみにしてたのに」
 リョーマの隣に腰を下ろした静が、優しい声音でそう呟いた。
「……そんなこと言った覚えないんだけど」
「約束してるから、って伝えてくれた時の顔がそう言ってたよ」
 ふふ、と確信を持って言い切る恋人の微笑みに、ぐ、とリョーマは言葉を詰まらせる。そんなの先輩の主観でしょ、と反論できる隙はあるのに、どうしてだか静の言葉はリョーマの核心を突くのだ。
 実際、楽しみにしていたかどうかと聞かれれば答えは静の言う通り「YES」なのだが、素直にそれを肯定するのも恥ずかしくて「それより桃先輩って意外と家族思いだよね」とわざと話題を変えたが「リョーマくんだってすごく可愛がられてるじゃない」と返されてしまう始末だ。
 ――もしかして慰められているのだろうか、とリョーマはそこで気付く。自分を見つめる静が「年上のお姉さん」の顔をしていたからだ。年上と言ってもたった一歳だけだし、本来は子供っぽいところも多分にある少女だとリョーマは思っているのだが、こういう時決まって静はそんな一面を見せる。
 静に会いに来た理由を告げていないのだから、彼女が勘違いしてしまうのも無理はないかもしれない。
「あのさ。俺、別に落ち込んでないよ。拗ねてもない。……あ、あと時間潰しに来たわけでもないし」
 誤解されていそうな理由を全て挙げて否定すると、そうなの? と言いたげにぱちくりと静の大きな目が瞬いた。
「静先輩に逢いたくなったから」
 意を決して、静を求めたシンプルでストレートな理由を告げる。言い終えるとやはり恥ずかしさを感じながらも、何故かすっきりとした気分になった。
「……先輩?」
「え、っと……あり、がとう……」
 そんなリョーマとは異なり、静は先程とはうってかわって困惑したようにすっと目を伏せた。その反応は少し予想外でリョーマの心は途端にざわめいてしまう。
「……もしかして会いたくなかったとか?」
「違うのっ!」
 あんなに楽しそうに笑っていて、勘違いとは言え慰めようとしてくれて、まさかそんなことはないだろう、と思いつつも、不安になって問いかけると静は弾かれるように立ち上がった。
「本当はずっと逢いたいなって思ってたの! 最近ゆっくりお話する時間もどこかにお出掛けすることできなかったし、だけどお互い都合が合わないのは仕方なくて、だからそのっ、」
 慌てふためく姿は普段冷静な静からはなかなか想像しにくい。しかしリョーマには見覚えがあった。学園祭が間近に迫った日。夕焼けに照らされながら、リョーマと逢えなくなる未来を寂しいと感じていることを思わず吐露したあの日を思い出す。
「先輩、落ち着いて」
 手を引き、そう声をかけると静はようやく我に返ったようで、ごめんなさい、と恥ずかしそうにゆっくりと腰を下ろした後、
「……逢いたいって考えてばかりいるのは私の方だって思ってたから……」
 ビックリしたの、と小さな声で呟いた。
 その告白に尚更愛おしさが募る一方で、自分の口下手で少々捻くれた性格故にそう思い込ませていたことを反省せざるを得ない。学園祭での出会いからまだ数カ月。お互い知らない面だってまだまだあるだろう。だが静が思っているよりもきっとずっとリョーマは静を好きでいるし、そしてこれから先も彼女への「好き」を重ねていく確信がある。
「そんなわけないじゃん」
「でも何も約束してないのに、迷惑でしょ……?」
 そんな考えすら同じだったなんて、いやーーお互いを想うからこそ同じ考えに至るのだろうか。
「迷惑だって思うならそもそも今日来てないよ。……まぁ、俺もそういうの考えなかったわけじゃないけど。でも、やっぱり顔見たかったから」
「……っ」
 引いたままのその手をぎゅっと握りしめると、静の頬が赤みを増す。
「だから静先輩も思ったこと、言葉にしてよ。先輩の考えてることちゃんと知りたいし、同じ気持ちなら一緒にやりたい。……付き合うって、そういうことでしょ」
 そうだ。遠慮なんかしなくていい。正直な所、恋人という関係において何をどうするべきなのかはまだはっきりと掴めてはいないけれど、少なくとも互いに互いを求めているなら遠慮する必要はないだろう。恋人同士だからこそ一歩引いてしまうところも勿論あるけれど、されど尚更お互いの気持ちに素直でいるべきだ。
 静に説きながら自分にも言い聞かせるように語りかける。
「ワガママなこと言って困らせちゃうかもしれないよ?」
「困るかどうかは聞いてみないと分かんないけど、別にいいっスよ。その時は俺もワガママ言うし」
 リョーマの中では決して冗談ではなかったが、そう捉えたらしい。静は肩の力が抜けたように、うん、と和らいだ表情で頷き、続けて口を開く。
「それなら、リョーマくんも伝えてくれる?」
「え?」
「私もリョーマくんの考えてること、もっと知りたいもの。だから今みたいに色々話してほしいな。……っていうのはワガママ、かな?」
 次はリョーマが頬を赤く染める番だった。首を傾げてそう問いかけてくる姿も、そんないじらしいお願いをワガママだと思っているところもたまらなく可愛い。
 そんな感想すら伝えるのは照れ臭いと思ってしまう今のリョーマが、いつも気持ちを正直に話すのは恐らく難しいだろう。だが静にだけ素直でいろというのは、さっき自身が口にした「そういうこと」とは程遠い。
「……なるべく伝えるようにはする」
「――うんっ」
 だから僅かな逡巡の後、リョーマは少し頬を掻きながら答える。いつだって伝えるとは言えなかったけれど、それでも静にとっては充分だったらしい。不安気なままだった表情から一転、ようやくリョーマが大好きな笑顔が目の前で花開いた。