Love me tender

「先輩、これってどういう意味?」
 机に広げたプリントと教科書、そのふたつとにらめっこしていたリョーマだったが、やがて降参して、隣の静へ助けを求めた。
「どれ? あ、それは二番の『急ぐ時ほど慎重に行動した方がよい』だよ」
「二番、ね」
 リョーマがシャープペンシルで指した問題を見て、静は選択肢から答えを指差す。
 来週に迫る中間テスト。その試験範囲に出てくるであろう課題プリントに手こずっていると聞き、静はリョーマの先生役を買って出たのだが――【次のことわざの意味を答えなさい】という問題の二問目で早速躓いた。国語は苦手科目ではないらしいが、どうやら今回の試験範囲問題はなかなか難読のようだ。
「じゃあこれは?」
「えーと……ちょっと待って。辞書開くね」
 三問目でも首を傾げるリョーマの代わりに、静はしっかり意味を覚えてもらおうと辞書へ手を伸ばす。リョーマはその間に次の問題に取り掛かったのだが。
「ねこに、こばん? カルピンに小判?」
「……ふふっ! それは『値打ちがあるものも、価値が分からない人には役に立たない』って意味よ」
「はぁ?」
 飛び込んできた猫という文字に、思わず反射神経で愛猫に置き換えて考えたリョーマの可愛らしさに、静はたまらず吹き出してしまう。
 プリントに印刷された諺と静に聞かされたその意味が結びつかず、リョーマはポカンと口を開く。
「日本語って難しいよね。どうしてこういう例え方するのか、よく分からないんだけど」
「そんなに難しい?」
 やがてお手上げだと言わんばかりにシャープペンシルを机に転がすと、大きな溜息を吐き出す。そんな恋人に静は苦笑をこぼした。
「なんていうか、遠回し? 昔の言い方? してるじゃん。あっちじゃ、もっとストレートだよ」
 あっち、というのはリョーマの生まれ故郷だろう。なんとなく興味が湧いて問いかけた。
「アメリカでもことわざってあるの?」
「あるよ。そうだな……簡単なのだとSeeing is believingかな」
「見ることは……信じること? うーん……日本で言う『百聞は一見に如かず』かなぁ?」
「こっちだとそういう言い方するんだ、やっぱり難しいッスね」と、静の言葉に眉を顰めるリョーマ。
 確かに日本語よりも英語のそれはシンプルで分かりやすい。リョーマが苦戦するのも理解できる気がする。
「あとはFailure teaches successとか」
「サク……?」
「先輩も英語の勉強する?」
 聞き取れず首を傾げた静を見て、リョーマが途端に目を輝かせる。
「もう! 今はリョーマくんの、国語の勉強でしょ。ほら頑張ろ?」
「ちぇ」
 こらこら、そうはいきません。
 本来の目的から脱線しそうになるのをしっかり止めて、渋い顔をするリョーマを鼓舞するのだった。

 *****

 静に会いたいから帰る。三日ぐらいそっちにいられるから会おうよ――と電話で伝えられたのは昨日のことだった。あまりにも突飛で、だけど彼らしい帰国計画に、静は驚きよりも嬉しさが勝った。
 そうして久しぶりに日本へ帰ってきた恋人を空港で出迎えた後、静は彼と共に自宅――一年前に大学に通う為に借り、一人で暮らしているマンション――へ向かった。
 最初はリョーマの自宅の方が寛げるのではないかと思ったのだが、二人の少ない時間を邪魔されたくないと言われれば、もう反論などできなかった。離れていた時間を少しでも埋めたいと考えているのは静も同じだったからだ。
「綺麗なマンションじゃん」
「駅からはちょっとだけ歩くけど、スーパーやドラッグストアが近くにあって便利なの」
「へぇ」
 そんな会話をしながら、部屋の鍵を開ける。薄ぼんやりとした室内へまず静が入り、玄関の明かりを点けた。オレンジの照明が照らしたのを見てから、お邪魔します、と律儀にそう呟き、リョーマが玄関の扉を閉める。
 途端、外の喧噪から切り離されて、今更ながらこの部屋でリョーマと二人きりで過ごす事実に、静の鼓動は跳ね上がった。
「えっと、リビングはこっち」
 動揺を隠して、リビングへ彼を案内する。
 どうしてこんなにドキドキしているのか――その理由は、久々に再会した恋人が一段と格好良くなっていたから。そして、そんな彼を部屋へ招き入れたのは今日が初めてだからだろう。静が大学進学し、このマンションに住むようになった時にはリョーマはアメリカに滞在していた為、一人暮らしを始めたことを知らせたものの、今日まで招く機会がなかった。
 とはいえ、付き合い始めた頃からデート場所として、互いの部屋は定番だった。場所が変わっただけで、以前のように部屋の主として彼をもてなし、恋人同士としてゆったりとした時間を過ごすだけ……なのだが、どうにもこうにも静の心は落ち着かない。
「……お腹空いてる?」
「機内食が出たから今はそんなにかな」
 リョーマは初めて赴いた恋人の部屋を少し見回し、しかしすぐに部屋の真ん中に鎮座しているテーブルの近くにちょこんと座った。
 その表情には僅かだが疲れの色を帯びているように見えた。長時間のフライトだっただろうから無理もない。
 世界を舞台にテニスプレイヤーとして練習に明け暮れているのに、貴重な休みを費やして静の元へ帰ってきたのだ。
 ――今日は疲れを癒してもらおう。
 静は一人ドキドキしていたのが恥ずかしくなって、気持ちを切り替えるべくぷるぷると頭を振る。そしてリョーマが持ってきた少ない荷物を部屋の隅へ移動させると、キッチンに続く廊下へ踵を返そうとした。
「それじゃあ、ゆっくりしていてね」
「静は何すんの?」
「朝ご飯の準備をしようかなって。あと、お風呂も沸かしておきたいし」
 以前にリョーマが勧めてくれた入浴剤が確かあったはずだから、それを使えば彼の心身をリフレッシュしてくれるだろう。
 朝も豪勢ではないけれど、リョーマが好きなものを作ってあげようと思う。その為には冷蔵庫の中を再確認して、献立を考えておきたい。
「後でいいよ」
 あれこれ考えながらキッチンへ向かおうとする静の手を、リョーマが素早く引いた。
「それよりも大事なこと忘れてる」
「えっ?」
 何を、と訊ねるよりも早く、静はリョーマに強く抱きしめられた。
「俺が何の為にこっちに帰ってきたのか、分かってる?」
 出逢った頃よりも低くなった声が耳の奥まで響く。
「う、うん。私に会いに来てくれたんだよね」
 静を恋しく想って逢いに来てくれた。電話や空港での熱烈な言葉は、どうやっても忘れられるわけがない。
 だが、静の返答にリョーマは「それだけじゃない」と不満そうな表情を見せた。
「静に触れたかった」
「っ」
 シンプルかつ真っ直ぐな感情を改めて伝えられ、静は息を呑むしかなかった。
 声を聴きたいなら電話があるし、顔を見たいならテレビ電話なんてものもある。二人の間にどれだけの距離があっても、愛を伝え合うなら文明の利器を使えば十分事足りる。しかしそれでは埋まらない恋しさがたくさんあることを、リョーマは勿論、静は知っている。
 ――そして、その恋しさを埋める一番の方法も。
「静だって分かってるから、この部屋に誘ってくれたと思ったんだけど?」
 それなのにどうしてよそよそしい態度を取るのか、とリョーマは言いたいらしい。
「わ、分かってるわ。私だってリョーマくんに逢いたかったもの。だから、帰ってきてくれてすごく嬉しいよ。でも……」
「でも、何?」
「リョーマくんと二人きりになるのが久々だから……」
 口をもごもごさせながら、理由を語る。
 意識してなかったわけじゃない。寧ろ意識しすぎた所為で、よそよそしくなってしまった。
「それにリョーマくん、疲れてるみたいだし」と思わず続けてから、自分が期待していたように捉えられそうな発言をしたことに気付く。
「ふーん?」
 はっと視線を持ち上げると、先程不満げだったことが嘘だったかのようにリョーマは口元を緩ませていた。
 違うの、そうじゃないの、と慌てて釈明するも、残念ながら耳を傾けてくれそうにない。
「俺のこと気遣ってくれてたんだ、なるほど」
「ちっ、違わないけど、そうじゃな……ひゃっ!?」
 わざとらしくうんうんと大きく頷いていたかと思うと、静の体はリョーマに軽々と抱き上げられてしまう。
「だけど、そんな心配はいらないかな」
 飛行機なんて慣れてるし、何よりも体力には自信があるから。
 ――だから安心してよ。
 そう言って笑みを零した恋人の色っぽさにクラクラしている内に、気付けばベッドへゆっくり下されていて、静は自分を組み敷こうとするリョーマを見上げていた。
「なんて言うんだっけ、こういうシチュエーションのこと」
「え……?」
 今から始まるであろう行為を想像して既に頭がぐるぐるしているところで、リョーマが不意に首を傾げる。
「あ、そうそう。『据え膳食わぬは男の恥』だった」
 そんな言葉どこで覚えたの! と聞きたくても、今の静には口にする余裕がない。しかしそんな恋人の心を察したのか、「静がずっと前に教えてくれたじゃん」とリョーマはイタズラっぽく笑いながら静の髪を優しく撫でる。
「教えてませんっ!」
「そうだったっけ? ま、どっちでもいいや」
「んっ……」
 否定の言葉を絞り出すけれど、もうリョーマにはどうでもいいようだった。その大きな手が伸びて静の頬を包み、優しいキスが降ってくる。一度、二度、三度目のキスをし終わったかと思えば、次は静の細い首筋へ。
 そして徐々に下りてくる彼の吐息が熱くなってきたことに気付いた矢先。
「ねぇ、もっと触ってもいい?」
「……っ!」
 愛おしそうにこちらを見つめる目が、静の意思を確認してくるのだ。
 ずるい、と思ってしまう。ここまで強引に来たのなら最後まで強引なままであってほしかった。きっとリョーマの気遣いなのだろうが、それが今は少し憎い。しかしただ自分の気持ちだけで事をすすめようとするとしたら、それは静が好きで、また静を愛してくれているリョーマではないことも知っている。
 成長して体つきが変わり声が低くなっても、自由気ままで、時々意地悪だけれどやっぱり優しくて。そして、静をずっと大切にしてくれている。
 向けられる愛情の大きさを改めて痛感させられて、どうして拒否できるだろう。
(できるわけ、ない。だって、私だって……)
 リョーマが静を求めたように、静だっていち早く彼の腕に飛び込んで、その体温と匂いを感じたかった。逞しくなったその身体に魅せられながら愛されたくてたまらないのだ。
 ありのままの気持ちを言葉にするのは勇気が足りず、されどようやく逢えた恋人と心も体も一つになりたくて。
「……や、やさしく……してね?」
「りょーかい」
 逡巡したのち、覚悟を決めてどうにか一つキスを返すと、リョーマはとても優しく微笑んだ。

@貴方はリョ静で『据え膳食わぬは男の恥、だし?』を
お題にして140文字SSを書いてください。
Thanks by : 140文字SSのお題