見つめ過ぎにはご用心

 充実した練習を終え、疲れを感じながらも満足げな顔で帰路につく部員達。一足先に着替え終わった静は部室のすぐ近くで彼らを見送る。
「あ、マネージャ! お疲れ様です!」
「お疲れ様。まだ誰かいる?」
「いえ、俺が最後っス」
 数分後。一人で出てきた一年生の部員に確認を取ってから、静はそこへ足を踏み入れた。
 部員達の練習が終わっても、マネージャーの仕事はまだ残っていた。部室の簡単な清掃と、部誌に今日の部活動内容をまとめること、そして部室の鍵閉めだ。
 部誌は部長の手塚が、鍵閉めは副部長の大石がそれぞれ受け持っていた雑務だったが、入部して暫く経ってから静が引き継いだ。
「静先輩」
 清掃を済ませ、さて、とノートを開いた瞬間だった。扉の向こうから声が飛んでくる。
「リョーマくん、お疲れ様」
 声の主は姿を見ずとも判別できた。一年生ながらも実力を認められ、レギュラージャージの着用を許されている青学・男子テニス部の超ルーキー。そして静の一つ年下の恋人――越前リョーマだ。
「もう帰れそうっスか?」
「ごめんなさい。今から書くところなの」
 そう言って部誌を彼の視界に入るよう、持ち上げる。雑用に追われて、今日は全く手を付けていなかった。
「じゃあ、ここで待っとく」
 迷うことなく即答すると、部室の窓際に置かれているベンチへゆっくりと腰を下ろすリョーマ。
 恋人同士だからと言ったって、毎日一緒に帰らなければならないわけではない。以前に一度「先に帰ってもいいよ」と気遣って提案したこともあるが、静の気遣いをリョーマは受け入れなかった。特別な用事がある時以外、彼は決して静一人を残して帰らない。
 リョーマの優しさに対する感謝も含めて、静は「ありがとう」と伝えて再びノートへ視線を落とす。早く書き終えよう、と決めて。
 それでもマネージャーとして、そして静自身にある責任感がノートに綴る文章を長くしていく。

「よし、っと……」
 ペンを走らせ続け、数分。静はようやく指を止めて息を吐き出す。
「お疲れ」
 労いの声が頭上から聞こえてきたので見上げれば、いつの間にかリョーマがすぐ傍に立っていた。
「待たせちゃってごめんね」
「別に、仕事なんだから謝る必要ない」
 にしても……と言いながら部誌を覗き込むリョーマ。
「部誌って、そんなに書くことあるんスか」
「基本的には行った練習内容を総括する感じだよ」
「だけには見えないんだけど」
 驚嘆のため息がリョーマの口から漏れる。
「気になった部員のことや、他にも色々書いてるから」
「……先輩ってほんと、生真面目だよね」
 説明を付け加えると、しみじみと呟かれてしまった。
「そんなことないよ。私はただ、こうやって書いた方が後で見返して部員に伝えられるかなと思っただけで」
 マネージャーとしてごく普通のことをしているだけなのだが。
「それが生真面目だって言ってるんスよ」
 繰り返される言葉と言い方だけに注視すれば、まるで呆れているようだった。しかし静を見つめる眼差しからは優しさが感じられる。
 相反する印象。果たして本音はどちらなのか――彼の声で聞いてみたくなる。
「ダメ、だったかな?」
 湧き上がった感情に従い、静はじっと彼の瞳を見つめて訊ね返してみた。
「……別にそういうわけじゃないけど」
 口をもごもごとさせて、結局最後まで言い終えないままリョーマはそっと目を逸らしてしまう。
(あ、照れてる。じゃあやっぱり心配してくれてたんだ)
 その挙動から恋人の本音を読み取り、彼の口にしたそれが自身を否定するものではなかったことに静はひっそり微笑んだ。
 唯我独尊。気まぐれで生意気。だけど憎めない――リョーマはまるで猫のような少年だ。帽子の下からでも射抜くような、大きく鋭い瞳もなんだかそれっぽい。
 だが時々、ふとした瞬間、その視線が落ちることがある。
 彼らしかぬ仕草は何も今に始まったことではない。合同学園祭中、運営委員として言葉を交わしていた時から何度か見かけたものだ。その時こそあまり気にしないようにしていたが、いざ恋人同士となるとやはり疑念が生じ、その理由を探るようになった。
 目を逸らされるのはどうしてなのだろう。自分が何かしたのかな……と。
 人と話す時は必ず目を見なさい――両親からそう言われて育てられた静には、唐突に視線を外されることは何よりも不安だった。
 それでも、リョーマの愛情に疑う余地は一切なかった。言葉は少なくてもリョーマは静をちゃんと気遣ってくれる。現に今、静を家に送り届けるが為に待ってくれているし、もしこの後の帰り道に何か強請ったとしても、きっと応えてくれるだろう。目を逸らされても、リョーマが静のお願いを断ることは今までほとんどなかったから。
 そうやってリョーマとの時間を着実に積み重ねていくうちに、やがて静はあることに気付いた。
 リョーマが意外と照れ屋なこと。猫のような双眼が時に口数の少なく、また素直じゃない彼の唇よりも雄弁に本心を語ること。
 それからというものの、静はことあるごとにリョーマの瞳を覗き込み、言葉だけでは読み取れない恋人の本音を確認している。きっとリョーマはその秘密を知りはしないだろう。
「なに人の顔見て笑ってんの?」
 俺の顔に何かついてるんスか、と頭を軽く握り拳で小突かれた。
「リョーマくんはやっぱり優しいなぁって思っただけ」
 心配してくれてありがとう、とにっこり微笑みかければ沈黙されてしまう。
「……あれ、違った?」
「違わない、けど……」
 歯切れの悪い返事に首を傾げると、リョーマは大きく息を吐き出した。
「先輩、なんか変わったよね」
「そう、かな?」
「前はよく拗ねてたじゃん。でもこの頃はなんか余裕そうだから、からかい甲斐がないっス」
「か、からかい甲斐って……もう」
 知りはしない――そう思っていたのにリョーマは静の変化に気付いていたらしい。「一体何があったわけ」と、とうとう訊ねられてしまう。
「うーん……言わなきゃダメ?」
「言いたくないなら別にいいけど」
 そう言いつつも、への字口になるリョーマ。その姿に静が思わず笑みをこぼすと、ますます顰め面をする。
 これは、ふて腐れられてしまう前に正直に話した方が賢明かもしれない。
「リョーマくんの目」
「え?」
「リョーマくんの目を見たらね、どんなことを思ってるのか分かるんだ」
 ラリーの真っ最中に相手を見据える瞳は必ず勝つという強気な気持ちできらきらと輝いていて、バカ騒ぎをしているテニス部の皆に送る視線は冷ややかに見えて実は情愛がある。そして静がスキンシップや言葉を求めた時に目を逸らす行為はただの照れ隠し。もう『子供っぽい』と言われても、そこに含まれている愛情が静を悩ませたりしない。
「……まるでエスパーっスね」
「あっ、信じてない」
「だから言いたくなかったのに……」と静がこぼせば「そりゃそうでしょ」とリョーマが反論する。
「でも本当よ。本当にリョーマくんの考えてること分かるんだよ?」
「……ふーん……」
 自信満々に言ってみせると、少しの逡巡後、リョーマはあぁ、とこぼした。
「じゃあ、今俺が考えてることを当ててみせてよ」
「え、ええっ?」
 戸惑う静をよそに、リョーマはほら早くと急かすようにじっと見つめてくる、普段は絡み合ってもすぐに解かれてしまう視線。それが今、注がれていた。まっすぐ静だけを捉えていた。
 滅多にないリョーマの行動に静はただただ驚くばかりだ。こんな部室の隅で見つめ合い、しかもその中で本心を探るなんて、なんともおかしなシチュエーションだ。だがここで逃げたら、先程の言葉が嘘だと決めつけられてしまうような気がする。それは嫌だな、と思った。
(面白がってる……? ううん、ちょっと違う……)
 決心してブラウンの瞳を覗き込むと、それはテニスプレイヤーとしてラケットを握っている時とも仲間達と話している時とも異なっていた。
 悪戯をしたくてたまらないような、けれど熱っぽくて、そしてその中に静への愛情も入っている――複雑な感情がない交ぜになっている眼差し。
 向けられるそれに、静は見覚えがあった。それはどこでもない、二人きりの時に向けられる『男』の目。それに一番近かった、頬が自然と熱を帯び始める。同時にぞくり、とする感覚。
 これは、この感じは――。
「……リョーマくん?」
「何、分かったんスか?」
 頷けば、答えを言わなければならない。静が言葉を詰まらせていると、ノートの上に置いていた手が彼の右手によって机に縫い付けられる。
「ちょ、ちょっと待って、いきなりどうしたの?」
「いきなりって何が? はっきり言ってくんないと分からないんだけど?」
 絶対ウソである。
「……こ、ここ部室だから!」
「だから?」
「だから、その、そういうことはっ」
 もうほとんど答えを言ったようなものなのに、リョーマはまだ訊ねてくる。
「生真面目にも程があるでしょ、先輩」
 それでも言えない静の様子に呆れ気味に笑うリョーマ。でも、だって、と続ける言葉を探している内に、左の手のひらに頬を包み込まれる。いよいよ逃げられない。
「ん、っ……!」
 彼からの視線から逃れようと、思わず目を瞑ったのが合図だった。瞬間、唇を奪われる。離れたと思いきや、次は頬に、また唇に、何度も啄むキスが贈られる。
「りょ、ま……くん……っ!」
 ようやく解放された時には静の息は絶え絶えになっていた。
「へぇ……さっきの話、確かに本当みたいっスね」
 でも、とリョーマの声は続く。
「部室だからダメとか言う前に、俺の考えが分かるんならもう少し気を引き締めてよ」
 ――俺だって男なんだから。
「え……?」
 いきなりの発言に静が何も言えずにいると、リョーマは大きく息を吐き出し、やがて言葉を付け加えた。
「だから、好きな人にじっと見られて、そういう気にならないヤツなんていないってこと。……これからは、俺もちゃんと言葉にするけど、でも先輩も。不用意なこと言ったり、するのはやめてよね。……色々と持たないから」
 好きな人、という響きにときめいている余裕なんかない。
「……えっと、その。うん、私も気をつけます……」
 静が反応するよりも早く、再び逸らされる視線。その行動からリョーマの言葉が紛れもない本心だということを、今まさに身を以て理解した静は小さく、しかししっかりと頷くのだった。

 ――それから暫くの間、リョーマよりも静の方が目を逸らすことが多くなったらしい。