日本へ帰国し、行く宛てもなかったリョーガが越前家で再び暮らし始めるようになって数か月。帰る場所があるということ、そこが一度は飛び出した家族の許であることに初めこそむず痒さを感じて、何度もまた旅に出ようかと考えただろうか。
だが今となってはそれも過去のこと。「おかえり」と迎えてくれる両親の存在に、いつの間にか旅に出ようなんて考えもしなくなった。――自分をあまり好んでいないリョーマとの関係は、相変わらずだけれど。
そんなある日のことだった。予定より早く用事が終わったリョーガはそのまま家へ真っ直ぐ帰った。
母は出張、従姉妹と紹介を受けた菜々子とリョーマは学校。普段は家にいる父も、昼前に出掛けていった。だからきっと今、越前家は無人のはず。いるとしたらカルピンぐらいだろう。
特段行く場所もないし、たまにはのんびり家で過ごすのもありか、と考えながら自宅へ帰ったリョーガだったが、そこには予想とは反して靴が二足並んでいた。
一足は、可愛げのない弟が愛用しているメーカーのスニーカー。学校が早く終わったのだろう。そういえばテスト期間がどうとか言っていたような気がする。
しかし、その隣に綺麗に揃えられている靴は誰のだろうか。女物なのは違いないが、菜々子や母の物ではなさそうだ。
(もしかして……)
首を捻ったのは一瞬。ある考えに達したリョーガはにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「なんだよ、チビ助も隅に置けねーじゃねぇか」
リョーマが女を連れ込んでいるのだ。そうに違いない!
こういうことに関しては勘がいいリョーガである。それもこれも自身の経験から来るのかもしれない。
幼い頃、南次郎の元で家族同然に過ごしたこともあったが、それもほんの僅かの間だ。なのに、リョーガは若い頃の南次郎そっくりの容貌と女好きを知らぬ間に受け継いだ。その為、近づいてくる女と付き合っては別れ、また付き合っては別れ……まさに「とっかえひっかえ」をしていた時もある。
そんな外国での武勇伝を語ったら、リョーマはあからさまに嫌悪感を示していた。
――それなのに、誰もいない自宅へ女連れだなんて。
(アイツもやっぱり俺や親父に似ちまったか?)
このネタでからかわずしてどうするというのか。
リョーガは迷わずリョーマの部屋へ直行した。
*****
「それでね……ここは……」
リョーマの自室は二階、階段を上がってすぐの場所だ。リョーガは息を潜めて階段をそろりそろりと上がっていく。
すると僅かながら声が聞こえてきた。明らかに女の子のそれに、リョーガはやっぱりと大きく頷く。
そして無事階段を上がりきり、無防備にもドアが少しだけ開いているその中を、リョーガはそっと覗き込んだ。
「だから、答えはこうなるの」
「ふーん……」
「分かった?」
室内にはリョーマと、茶髪を肩まで伸ばした少女がいた。二人はテーブルに齧り付いて、何やら熱心に勉強の真っ最中のようだ。残念ながらこちらに背を向けているので顔は見えない。
「いや、全然」
「ええっ?!」
「ウソ。ちゃんと理解できたッスよ」
「もう……真面目に教えてるのに」
「ゴメン。そんな拗ねなくてもいいじゃん」
「拗ねてませんっ」
中から聞こえてきた会話はなんとも色気のないものだった。
(なんだ、つまんねーの)
リョーガは思っていた展開と少々異なっていたことに頭を掻いた。けれども表情こそ見えないものの、肩を寄せ合って話している様子はとても微笑ましく見える。
「そういうのを拗ねてるって言うと思うんだけど」
リョーマが女の子相手に対して、普段どう接しているかなんてリョーガは知らない。だが、彼女へ特別な想いを抱いているのは明らかだった。
少女の言葉に受け答えするリョーマの声音は、聞いたことがないほど優しいから。
「だってリョーマくん、さっきから冗談ばっかりなんだもの。勉強教えてって言ってきたのはリョーマくんの方なのに」
拗ねたくもなる、と少女は反論する。そんな彼女の声色もどこか甘ったるい。
想いを抱いているどころか、もう既に付き合っているのかもしれない。
「先輩、からかうと面白いからね」
「私のせいなの?」
「さぁ?」
「もうっ」
こそばゆくなりそうな会話を聴きながら、リョーガは邪魔にならないようそっとその場を後にする――。
「よぅ、チビ助! 随分楽しそうじゃねーか」
「なっ……」
「きゃっ!?」
――なんてわけがない。
扉を開けるや否やずかずかと室内に入って、二人の背後にしゃがみこむ。
「ちょ、なんでアンタがいるわけっ?」
リョーガの襲来に、面食らうリョーマ。
「なんでも何も、家に帰ってきただけだけど?」
「そういうことじゃなくて!」
「そしたら誰かさんが女連れ込んで仲良くやってるようだから、兄貴として気になっちまってな」
「連れ込んでない!」とリョーマが叫ぶ。
「何言ってんだ。誰もいない家に立派に連れ込んでんじゃねーか。なぁ?」
「え、ええっと……?」
相槌を求めたものの、少女は困惑を顔に貼り付けている。
「あ、悪ぃ悪ぃ。挨拶がまだだったよな。俺はリョーガ、一応こいつの兄貴」
「お、お兄さん……ですか?」
簡潔な自己紹介に、少女は目をぱちくりとさせた。兄弟がいるなんてきっと聞いたことがなかったのだろう。予想通りの反応だ。
「そ。アンタはチビ助の彼女? 名前は?」
「あ、は、初めまして! 広瀬静といいます」
ひろせしずか、と名乗った少女は慌てて頭を下げる。明確な返事はなかったものの、やはり付き合っているらしい。
茶髪のセミロング。大きな、ぱっちりとした目。白い肌。一般的には可愛い部類に入るだろう。しかし派手さはなく、どちらかというと地味な印象だ。いかにも真面目な優等生タイプ。はっきり言ってリョーガの好みとは異なる。リョーマと変わらない年だとしたら、範囲外に近い。
――でも、悪くない。
「あ、あの……?」
リョーガ自身はじろじろ見ていたつもりはないが、静が戸惑った声を上げた。
「……っと?」
瞬間、肩を押されてリョーガは尻餅をつかないまでも、よろめいてしまう。
「何すんだよ、チビ助」
「変な目で先輩を見るな」
肩を押したのは誰でもない、リョーマだ。
「リョーマく……っ」
リョーガが離れた隙に、リョーマは素早く恋人を抱き寄せる。
「変な目ェ? どういう目ですかねぇ、それは。オニイチャンに教えてくれませんかね」
体勢を戻しながら、リョーガはわざと挑発してみせた。
「もしかして俺がこの子に手出すとか思ってんのか?」
「……アンタならやりかねないでしょ」
「おいおい、随分なこと言ってくれるじゃねぇか。ま、その子がその気なら俺はいつでも歓迎するけどよ」
「……っ」
キッ、とリョーマの視線が一層鋭くなる。
――静を兄の毒牙にかけたくない。奪われたくない。
こちらを睨みつける双眼からは嫉妬心が剥き出しになっていた。
いつも無愛想な弟が、こんな露骨に感情を表すなんて。
(こりゃまた、随分熱心なこった)
どうやら、この少女に心底惚れているらしい。リョーガは驚くと同時に感心した。
恋愛なんてほんの一時楽しいだけで、本気になった方が馬鹿なもの。ましてや中学生同士のそれなんて戯れ同然。リョーガはずっとそう思っていた。いや、今もその考えは変わらない。
けれど目の前にいる弟は子供ながらも本気の恋をしている。瞳が、少女を抱きしめる腕が、すべてがそう訴えているようだった。
(前言撤回、だな)
やはりリョーマは、自分や南次郎とは似ても似つかないらしい。リョーガは降参と告げる代わりに掌を見せた。
「なんてな。ジョーダンだよ。心配すんな。生憎、ガキには興味ねぇから」
「……」
冗談だと明かしても、リョーマの視線は緩まない。
「本当だっつーの。カワイイ、カワイイ弟のカノジョに手なんか出さねぇよ。仲良くしていきたいとは思ってるけど」
「思ってもないこと言うのはやめてくんない。それにそんな必要もない。っていうか、早く部屋から出てってよ」
「り、リョーマくん。ちょっと言いすぎじゃ……」
仲良く、という単語に反応し、より一層抱きしめる力を強くしたリョーマと恥ずかしそうにしながらも抵抗しない静。二人を交互に見て、リョーガはにやり、と笑う。
「いやいや、あるだろ。だってそんなおアツイんなら、いずれ俺の妹になるんだろうし?」
「えっ」
「な……」
リョーガの爆弾発言に、途端静とリョーマは絶句した。
「何言って……ば、バカじゃないの!?」
「んだよ。俺にあれだけ噛みついといて、将来を考えるほどってわけじゃねーのかよ」
「っ……そんなこと言ってないだろ!」
「だったら素直に頷いとけばいーんだよ」
大袈裟に肩を竦めてみせれば、リョーマが立ち上がり声を荒げる。顔は先程とは打って変わって真っ赤だ。
またしても初めて見る弟の表情にリョーガはくつくつと喉を鳴らした後、
「っつーことで、静っつったっけ。チビ助ともども仲良くしてくれよ。なっ?」
「え、えっと……」
「チビ助のこと、マジで好きじゃねぇの?」
もう一人の当事者へ向き直し、返答を求める。
「アンタ、ほんといい加減に――!」
「そんなことないです! ……よ、よろしくお願いしますっ」
「おぅ、よろしくな」
リョーマが我に返り、叫びかけたがそれよりも早く静がぺこりと頭を下げる。
リョーガの妹になることーーつまり将来を約束することを了承したも同然の返事にリョーガは満足そうに微笑み、リョーマは沈黙してしまうのだった。
「っつーか寧ろ変な目でカノジョのこと見てたのはチビ助、お前の方だろ? 密室で二人きり、男としちゃ何も考えない方が――」
「……っ早く出てけ!! このバカ兄貴!!」
平和に収まりかけたかと思いきや。
余計なひと言によって、リョーマの怒号が響き渡り、今度こそリョーガが部屋を出されてしまったのはそれからわずか数分後のことである。