雨の日LOVERS

雨粒がテニスコートを容赦なく濡らし続けている様子が、廊下から確認できた。
 朝は小雨だったのに、まさかこれほどまでの土砂降りになるなんて。これではきっと、放課後の部活動はミーティングのみで解散になるだろう――今日も。
(今日で何日目だっけ……)
 一、二、三……リョーマは指折り数えて考える。
 ここ最近、雨が続いている。強い秋雨前線の影響らしい。その為、部活動が満足に行われていない日も連続していた。
 こういう場合の部活動は専らミーティングか、他の場所を借りての基礎練習。なので活動そのものは中止にこそなっていない。しかし本来の活動場所であるコートが使えないとなると、出来る練習内容も必然的に同じになってしまう。もうそれが何日も続いていれば、事情が分かっていても、やはりフラストレーションは溜まる一方だ。
 大きな大会も終わった今、焦る時期ではない。だけど――ボールを触りたい、誰かと打ち合いたい。そう思うのはテニスプレイヤーとしてごく当たり前の欲求だろう。
 しかしどうやら今日も叶わないらしい。基礎練習で体を動かせればまだいいが、体育館などの屋内活動ができる場所は他の部が使用する曜日だから難しいはずだ。
(ミーティングって退屈なんだよね)
 鞄を持ち直しながら、心の中でぼやく。
 部室へ足を向けるリョーマの顔は面白くないと言わんばかりの仏頂面だった。

 案の定、部活動はミーティングのみ行われ解散となった。
「静先輩」
 解散早々、帰路に着くチームメイト達の背中を見送った後、リョーマは部室に一人残っているマネージャー兼自身の恋人へ声をかける。
「うん、ちょっと待って。よしっ、と……」
 名前を呼んだだけで急かされていることを察してくれる静。片付けと帰宅準備を整えると、パタパタと駆け寄ってきた。
「ありがとう、リョーマくん」
「どういたしまして。それじゃ帰るッスよ」
「うん」
 静の所有物であるピンク色の傘を広げて差し出す。微笑んで受け取った彼女を見てから、リョーマは自身の傘の柄を握り直すとゆっくり歩き出した。静もその隣へ歩み寄って来る。傘同士がぶつからない、ぎりぎりの距離で。
 雨の日であろうと、お互い予定がなければ下校も共にするのが暗黙のルールだ。というより、広瀬家からもう少し歩いた先に越前家があることから必然的にそうなったと言ってもいい。――例え互いの帰路が反対方向だとしてもリョーマは恋人を送っていただろうけれど。

「もう今日で三日目だね」
「え?」
 学校を出てからしばらく。おもむろに静が口を開いた。呟かれた数字に、リョーマは一瞬首を傾げるがしかし、先程自分が数えた日数と一致することにすぐに気付き、「あぁ」と頷き返す。
「そろそろ晴れてほしいよね。じゃないと……」
「……なんスか?」
 そこで静は一旦口を噤み、ちらりとリョーマの顔を伺った。何かを言いたげな視線。リョーマは訝しみながらも問い返す。
「『テニスが出来なくてつまらない』って拗ねちゃうかも、と思って」
 自分で言いながらも少し可笑しそうに笑う静。先程の視線から察するに、静の脳内でその台詞を喋っている人物は大体想像がつく――が。
「誰が?」
 念の為、訊ねてみる。
「リョーマくん。不満だーってそんな顔してる」
「別に、拗ねてない」
「そう?」
 寧ろ、そんな風に思われていたことにムッとしてしまう。静にきっと悪気はないのだろうが、彼女の言い方はまるで年下扱いされているようだ。事実、静からしたらリョーマは一つ年下に違いないが。
「その割には、最近ずっと不機嫌そう」
「そりゃ……ミーティングばっかでつまらないし。けど拗ねたところでどうしようもないじゃん、天気なんか」
 だから拗ねてなんかいない。まだ疑いの目――と言ってもからかいを含んだような柔らかさがある――で見つめてくる静に納得してもらおうと、つらつらと言葉を並べていく。
「リョーマくんって、もしかしてものすごく雨が嫌いだったりする?」
 そんな中、静が不意に問いかけてきた。
「……いきなり何?」
「間違ってたらゴメンね。でもご機嫌ななめなのは、雨のせいが大きいのかもってふと思って」
「リョーマくん、猫っぽいし」と静が最後に付け加えた理由に、リョーマは思わず「何それ」と呆れ声で呟いた。
 静の発言、発想には時々驚かされることがある。運営委員やマネージャーとして立っている時の彼女はとても頼りがいがあるが、リョーマの恋人として隣にいる時の静はなんとも子供っぽい。
 もっともそこが静の魅力であり、リョーマが静を好きな理由の一つなのだけど。
「それで、どう?」
「……別に、ものすごくってわけじゃないけど」
「けど、当たってるのよね? ……理由、聞いてもいい?」
 純粋に訊ねられれば、口を開いてしまうリョーマだった。

 ――あれはいくつの時だろう。
 物心がつき始めた頃、それと同時にテニスを覚えたリョーマはほぼ毎日ラケットを持って外に飛び出していた。それから少しもせずに勝ち負けを理解した頃には、自分が勝てるまで父親や兄を付き合わせようとしたぐらいだ。それほどまでに幼かった頃のリョーマは、ただただ単純にテニスの楽しさに取り付かれていた。
 だからこそ、雨が降ってしまうとそれだけで楽しみを全て奪われてしまったかのようで、それこそ静の言う通り拗ねて母親を困らせたこともあったようだ。

「それだけテニスが好きだったんだね、リョーマくん」
 聞き終えた静は微笑ましそうにリョーマを見つめて呟いた。その視線に自分から話したとは言え、恥ずかしくなる。
「言っとくけど、昔の話だから」と誤解を与えないように付け加えるが、聞いているのかいないのか。静は更に笑みを深くするだけだ。
 面白がったり、からかっているわけではない。誰にも打ち明けたことがない将来の目標を語った時も、彼女は耳を傾け、応援してくれた。静はそういう女の子だ、分かっている。
 しかし、だからこそ尚更むず痒くなる。
「っていうか、誰だって雨は嫌いでしょ」
「誰だって、ってことはないと思うよ?」
 リョーマの断言に、即座に静が首を傾げた。
「だって私は好きだもの、雨」
 なんで、というリョーマの短い問いかけに、静は傘を見上げて答えを返してくれる。心なしか、その表情は楽しそうに見えた。
「雨が降ればいつも通る場所も少し変わって見えるし、雨が降った後は空気が澄んでるから気持ちいいし」
「ふーん……?」
「あと雨粒が傘に落ちてくる音とかもね、聴いてると意外と面白いのよ」
 理由は、と訊ねるよりも早く静は語りながら傘を少し傾けた。ぱたぱた、と傘布を叩きつけ、滑る音を聴くその横顔はやはり楽しげで。
「先輩、変わってるッスね」
「うーん、そうかなぁ?」
「少なくとも俺からしたら、そう見えるけど」
 静が語ってくれたように世界を見たことはない。その感覚も正直理解できない。雨に濡れたコートはただ見つめるしかなくて、雨音はやはりただ耳障りなだけだ。幼い頃のように拗ねたり、駄々をこねることはしなくなっても、相変わらず雨の日は鬱陶しく感じる。
 でも――。
「でもちょっと視点を変えて見ると、雨の日も憂鬱なことばかりじゃないと思えない?」
 優しく投げかけてくる静の言葉に、先程見せてくれた横顔に、ほだされてしまいかけている自分がいて。だけどそれはなんだか負けたような気がして。
「……まぁ、分からなくもない、かも」
「ホント?」
 思わずひねくれた返事を返してみた。それでも静は嬉しそうに笑うから、結局はほだされてもいいかとさえ思えてしまう。
 ――そう、思えてしまうのは確かだけど。

「雨、好きになれそう? 機嫌も、直りそう?」
「……だから俺は別に拗ねてないッス」
「ふふっ、冗談です」

 ――先輩が隣にいてくれるなら、雨の日も好きになれそうかも。
 言わなかった答えは今はまだお預けだ。

title by:Elysium