平凡な朝に募るしあわせ

 リョーマくーん、と部屋の向こうから呼び声が届いた。更に、ご飯できたよー、と起床を促す言葉も続く。
 聞こえてくるそれらに反して、リョーマは寝返りを打った。窓から差し込む朝日が閉じた瞼にも突き刺さって、思わず眉根を顰める。
 時計を見ずとも起きる時間をとうに過ぎているのは分かっていた。でも今日は休み。だからまだ起きてやらないのだ。
 勿論、折角の休日を布団の中で過ごすつもりはないし、リョーマにそんな気がないことを同居人は知っているだろう。そして勿論、寝起きの悪さーー昔に比べれば比較的改善傾向にあるけれどーーだって、彼女は理解している。もう何年も隣にいてくれて、今ではこうして同じ屋根の下に暮らしているのだから。
 もし知らないことがあるとしたらきっと、今の状況をリョーマが楽しんでいることだけだろう。

 呼び声が聞こえてきて間もなく、リョーマの寝室へパタパタとスリッパの音が近づいてくる。
「リョーマくん? まだ寝てるの?」
 ドア越しから伺うように訊ねてくる声をそれでも無視していれば、「入るね」と律儀に告げてから同居人――静は寝室の扉を開けた。
「……やっぱり」
 布団に潜ったままのリョーマを見下ろし、静が呆れたようなため息をこぼす。恋人を見下ろす視線はまるで扱いの困る子供を見るようなものだろう。見えないけれど、だからこそリョーマには簡単に想像できた。
 リョーマの恋人はいつまでたっても自分が年上なのだと主張したがる。それこそ、子供っぽい行為だというのに。
 昔の彼だったら、彼女のそんな性質を分かっていてもそういう風に見られることを嫌がって、今もすぐに起き上がっていただろう。年下と思われたくなくて、彼女の恋人として相応に扱われたくて。
 けれどリョーマも歳を重ねて、そして少しずつ余裕が生まれた。そのお陰だろうか。静に対する気持ちは変わらず、されど愛し方は少々変わった。
 もっと正確な表現をするならば『甘え方を覚えた』のだ。学生時代にはできてもやりたくなかったこと――「甘えてほしい」という彼女の、単純ながらもなかなか難しいリクエストに、現在リョーマは彼のやり方で応えている。
 こうして朝、例え目を覚ましていても静が起こしに来るのを待っているのもその内の一つだ。
 リョーマも最初から意地の悪いことを考え付いたわけじゃない。
 それはある日の朝。意識は浮上したものの、起きるのが億劫でベッドから起き上がらずゴロゴロしていた時のことだ。まだ眠っているものだと勘違いしたらしい静が自分へ呼びかける様子が面白かった。
 ああ、これは一緒に暮らしているからこその特権の一つだ、とその時気付いてしまったのである。それからの日々、特に長期の休みを取れた時には存分に“甘えている”というわけだ。
 当然だが、静はその事実を知らない。寧ろ試合や練習で疲れているのかなと思い、気遣ってさえくれる。
 確かに疲れが溜まって起きられない日もあることにはあるが、しかし毎朝の半分ほどは狸寝入りしているだけと知ったら彼女はきっと怒るだろう。いや、呆れるかもしれない。
 それでも静は――静なら、最終的には笑って許してくれる気がするのだ。リョーマくんたら、とお姉さんのように振る舞ってみせてくれるのではないかと。
 そしてそんな風に信じられることこそ、本当の意味で『甘えている』ということをリョーマはちゃんと理解している。もう一つ素直になれなかった少年の頃を思えば、恐ろしい成長ぶりであった。

「リョーマくん、起きて。朝だよ」
 暫く様子見をしていた静だったが、ようやくリョーマの肩に手を伸ばし、揺すり始めた。ゆさゆさ、ゆさゆさ。静の起床を促す行為は、しかし生温くてリョーマは内心で苦笑を漏らした。
 強引に布団でも剥いでくれれば、もうちょっと早く起きてみせられるのに。なんて毎度考えるリョーマであったが、尤もそんなところが静らしいのだ。それに無理やり叩き起こすような彼女だったなら、そもそも朝のひと時を楽しめていない。
「……早く起きなきゃ、朝ご飯抜きだよー?」
 何度も繰り返されたそれに反応を示さないでいること数分。静が意識的に声を張った。彼女なりの最後通牒。
 きっとリビングのテーブル上には静お手製の朝食が並んでいるだろう。それもリョーマの好物である和食を中心としたメニューに違いない。特別頼んだわけではないし、静のレパートリーに洋食がないわけでもないけれど、朝食に限っては必ず和食だ。
 さて、今日は何だろうか。考えると、早く朝食にありつきたくなった。
 というか、そろそろ起きなければ朝食抜きになってしまうかもしれない。静は怒れば本当に実行するだろうし、挙句このまま放置されかねない。それだけは避けたい。
 静お手製のご飯を食べられないこともだが、何よりも彼女を怒らせるのは本末転倒だからだ。
 と言うのも、リョーマのそもそも本来の目的は静の一挙一動を観察するわけではなくて――。

「……あっ、起きた?」
 慌ててまさに今、意識を浮上させたかのようにもぞもぞと動き出してみせると、すかさず静が顔を覗き込んできた。言葉の代わりにこっくり頷いてみせれば「もう、起こしくたびれそうだったのよ」と彼女は少し頬を膨らませながら息を吐く。
 しかしそれも一瞬。
「おはよう、リョーマくん」
 そう言って、極上の笑顔を向けてくれる。出逢った頃よりかは大人びた、けれどもやはり変わらない微笑みを。
(……少しぐらい怒ってても言ってくれるんだ。……可愛い)
 身を起こしながら、リョーマは心の中で呟く。
 これこそ、リョーマの本来の目的だ――静に起こされて、その笑顔で朝を迎えること。
 もしも他人が聞けばなんとも平凡な、と言われるだろうし、昔の――静と出逢うまでのリョーマには到底考えられないことだ。
 しかし今の彼にとっては何とも代えがたい贅沢であり、幸せだった。願わくば明日も明後日も、その先も繰り返したいほどに。
 そんな幸福感に包まれつつ、ベッドから完全に起き上がる。
「……はよ、静」
 そして、今日も変わらぬ幸せをくれた恋人の頬に朝一番のキスを贈って。
「も、もう。ご飯冷めちゃうから、ほら早く」
「はいはい」
 照れた静に促され、そうしてやっとリョーマの一日は始まるのだった。

title by : 寡黙