にゃん・にゃん・にゃん

「違う、ちがーう! もっとこう、首を傾げて……」
「は、はい」
 リョーマの耳に、そんな声が飛び込んできた。高いテンションと特徴のある声の主は菊丸、それにやや戸惑いつつも返事を返しているのは静だろう。珍しい組み合わせでもないが、リョーマはおや、と視線を向ける。いつもの雰囲気とは異なったものを感じたのだろう。
「えっと……こう、ですか?」
「そうそう! いい感じだにゃ!」
「本当ですか?」
「おぉ、笑うともっといいねー! うんうん、ごうかーく!」
 何を熱くなって話しているのかと思いきや、二人は向かい合い、菊丸が静に対し、身振り手振りで何かを指導しているようだった。
 菊丸の「合格」という言葉に、静の笑い声が聞こえた。しかし肝心の彼女はこちら側に背中を向けているのでよく見えない。何が合格で、何がそんなに楽しいのか。
 少しの興味と嫉妬心を抱えて、リョーマは彼らの方へ歩みを進めた。
「何やってるんスか」
「あっ、リ、リョーマくん……!?」
 そして第一声。問いかけは思っていたよりも低い音となって、リョーマの口から飛び出した。元々こちらを向いていた菊丸はさておき、背後から突如掛けられた静は、その声音に肩を揺らして振り向いた。
 驚きと、それ以外の――恥ずかしさのような――感情が、彼女の顔に朱を散らすことに、リョーマはますます心を燻らせる。
「おおっ、オチビ! いいところにー!」
「いいところ?」
「ほらほら、広瀬さん! さっきの特訓の成果、おチビに見せてやろーよ!」
 不機嫌なリョーマを知ってか知らずか。菊丸はリョーマの登場を喜んだ。疑っているつもりはなかったが、どうやら二人だけの会話で終わる予定はなかったらしい。
 そのことに安堵するも、問いかけに対する明確な答えが貰えなかったので、もう一度リョーマは訊ねた。しかしそれも流されてしまう。
「え、えっ、あの! 今、ですか?」
 彼にはぐらかす意図はないらしい。静の返答に「あったりまえじゃん!」と全開の笑顔で促すだけだ。
 入部してから数か月。既に知っていたけど、菊丸はマイペースだ。自由と言ってもいいかもしれない。ある意味、自分よりも。
 ならば、とリョーマは静に視線を向け直した。
「……特訓って何スか?」
 彼女も当事者の一人だ。リョーマが知りたがっている「何か」を答えられるあろう。そして心のモヤモヤを解消してくれるはずだと信じて、静に問いかける。
「そ、それはね」
「うん」
「……えっと……」
「言いにくいこと?」
「ううん、言いにくいわけじゃないんだけど。……き、菊丸先輩……」
「早く早く! じゃなきゃ休憩終わっちゃうよん」
 意を決して口を開いた静。
 だったがすぐにもじもじし出し、結局何も答えてくれない。しまいには菊丸の方へ縋るような視線を送り、それに対し、菊丸は励ますだけだ。
(どうしよう……リョーマくんの視線がなんだか怖いけど、やっぱりアレをするのは恥ずかしいよ……)
 意外にも早く訪れたこの場面に、静は改めて考えていた。これからしようとしていることは、果たしてどうリョーマの目に映るのか。想像すると、次第に羞恥心が大きくなっていく。
 しかし、菊丸に少ない休憩時間を使って指導してもらったことに責任を感じて――だが、最初に静に話を持ち出したのは菊丸だった――、ようやく彼女は決意する。生真面目な静の頭には、逃げ出すという選択肢は現れなかった。
「今日が何の日か知ってる?」
「……今日? 何かあるんスか?」
 少し前にも、同じ質問をされた気がする。そんなことを思いながら、リョーマは本日の日付を頭に浮かべた。
 2月22日。なんてことない日曜日。少なくともリョーマが覚えている限りでは誰かの誕生日でも、静との記念日でもないはず。
 分からない、と正直に首を振ると、いよいよ静の声が固くなる。
「あのね。今日は猫の日、なんだよ」
「猫? ……なんで?」
「それは、えっと……?」
「語呂合わせみたいなものだよーん。ねぇー、広瀬さんー?」
 どうして猫の日? そもそも、なぜそんな日があるのか?
 率直な疑問で眉を顰めるリョーマと、今から行う行為を思うと、ぎこちなくなる静。そんな二人の会話に割り込み、菊丸が人懐っこい笑みを彼女に向ける。
 助け舟を出してくれた。静はそう直感した。はい、と緊張で上擦った声で返事を返して、再度リョーマの方へ向き直す。
「……す、数字の2が3つ並んで、にゃん、にゃん、にゃん! だからかなっ?」
 猫の鳴き声を口にする度に、絶妙な角度に傾げた首と、顔の前で握りこぶしにした両手を揺らす。おまけに、笑顔を添えたら完璧だ。
 だが説明の途中で羞恥がこみあげてきた静には、ちゃんと自分が微笑めているのかは分からなかった。
「……」
「どう、どう? 広瀬さん、かっわいいでしょー!」
「…………」
「なかなか上手いでしょ? 俺が教えたからね~」
 菊丸は自分の指導通り、愛らしい猫真似をしてみせた静を絶賛する。
 猫の日だから、と静に猫真似させようと入れ知恵したのは彼だった。可愛がっている後輩二人のカップル――はっきり言えば静の姿を見て、驚くリョーマ――をからかう予定だったが、彼は目的を半分忘れていた。
「……あ、あの。リョーマくん?」
 一方、何の反応も見せないリョーマに、静は不安になっていた。菊丸の言葉に同意してくれるとは、端から思っていなかったけれど。
 呆れて何も言えないのだろうか。リョーマの瞳から彼の声を汲み取ろうとじっと見つめる。だが、案の定逸らされてしまった。
 やっぱりやるんじゃなかったと落ち込む静の気持ちを例えるなら、まさに“穴があったら入りたい”だった。
「もう一回! もう一回やってみせて~」
「はっ、えっ、あの……」
「お願い~!」
「…………に、にゃあ……?」
 そんな静を知らず――またリョーマの表情の変化に気づかず、菊丸は無邪気な笑顔でアンコールする。
 どう断ればいいのか分からず半ば自棄だった静は、ぎこちない笑みでもう一度鳴いた。ポニーテールが、彼女の動作に合わせて揺れる。その瞬間。
「……ってぇ!! 何するんだよ、オチビーー!!」
 リョーマが、菊丸の足を踏みつけた。上がった悲鳴に彼は頭を下げる。しかし。
「……あぁ、スンマセン」
 謝罪の声に反省の色はまったく滲んでいない。心がこもってない云々と、菊丸が更に抗議しようと口を開く寸前、リョーマは「けど」と言葉を継ぎ足した。
「バカなこと教える暇があるなら、俺達の練習相手になってくれる方が助かるんスけど」
「バ、バカぁ?! こらおチビ、先輩相手に言っちゃダメなんだぞ!」
「あと、静先輩」
「は、はいっ!?」
「こういうこと、今後はしないでよね。絶対」
「……はい……」
 それだけ言うと、リョーマは足早にその場を去る。菊丸と静、両者にダメージを与えて颯爽と。呼び止めようと大声を上げる菊丸とは違って、静はしおしおとうな垂れて――それ故に、彼女は恋人の呟きを聞き漏らすことになった。

 *****

 悪ふざけに付き合わされたと言うように、リョーマは溜め息をコートに落とす。その表情も声もいつものように見えて、その実、少し違った。何かを隠すように、帽子を深く被り直す仕草が、その証拠だ。
「…………バッカじゃないの」
 漏らした言葉は果たして誰に向けられたものなのか。その事実をリョーマ以外が知り得ることは、恐らくないだろう。