Elusive affection

授業を終え、部室へ向かおうとリョーマはあくびを噛み殺しながら足を進めていた。ふあぁ、と気の抜けるそれは収まる気配がないが、寝不足というわけではない。授業中に居眠りをしてしまい、まだ眠気から覚醒できていないだけだ。ラケットを握れば、そんなもの吹き飛んでしまうのは今までのことから把握しているので、部室までの距離が縮まるにつれテニスへの欲求に目が覚めていった。
「おはよう、桃城くん。はい、これ」
「おう! ってなんだこれ? 俺に?」
「うん、もし良かったら食べてほしいなと思って」
「食う食う! 食いもんならなんでも食うって! サンキューな、広瀬!」
 目的地の数メートル手前まで来たところで、不意に見知った姿と会話がリョーマの視界と耳に飛び込んできた。リョーマと同じく部活動へやって来た桃城と、その彼と談笑する静。二、三言言葉を交わした後、静は桃城へ何かを手渡した。にかっと笑って受け取ると、桃城は部室の中へ入っていく。
 その後も、続々と来る部員達に同じものを渡していく静。一体何を渡しているのか。己の歩行速度がやや早足になっているのを感じながら、リョーマも恋人の元へ近づいていく。
「あ、リョーマくん。はい、Happy Halloween!」
「……なにこれ」
 少しむくれた表情でやって来たリョーマに気づくや否や、静は持っていた手提げバッグからオレンジのリボンで開封口を結んだ小袋を目の前に差し出した。その形や大きさから、先程から他の部員に渡していた物と同一のようだ。
「お菓子よ。あ、もしかして甘いもの好きじゃなかった? 一応甘さは控えめに……」
「そうじゃなくて」
 袋自体は透明なので何が包まれているのかは見たら分かる。かぼちゃ型のクッキーが数枚入っていた。静のことだ。実際にかぼちゃを使用して作っているのかもしれない。
 いや、それはともかく。
 リョーマが問いた真の質問に気づいた静は、あぁと頷く。
「今日、ハロウィンでしょ? 私のクラスメイトにイベント好きな友達がいてね。去年、なんとなしに渡してみたら今年も催促されちゃって」
 ――広瀬さんの料理レベルは高いようだ、と以前乾から聞いた情報を思い出す。たまに作ってもらっている弁当だって文句なしの味だ。菓子作りだってお手の物だろう。
 だがしかし。
「それで、なんであいつらにも配ってるわけ?」
 手のひらに収まっている包みに視線を落としながら、更に投げかける。友達同士で行われる小さな催しを、わざわざ部の方にまで――しかも察するに全員の分を用意しているようだ――拡大する必要があるのだろうか。
 リョーマの疑問に僅かな嫉妬心が混ざっていることに気づかず、静はにこやかに口を開いた。――それが恋人の嫉妬心に更なる火種を投下することになるとは知らず。
「実はね、堀尾くんや水野くん達にも『食べてみたい』って言われたのよ。ほら、学園祭で金魚すくいやったでしょう? その時にクッキー作って小さな子供に配ったんだけど、それが好評だったみたいで」
 その評判を聞きつけた彼らに、お願い――要するに強請られたのだと静は打ち明けた。
 人の善い彼女はお願いされれば無碍に断れないタイプだし、『自分が作ったもので良ければ』と考えたのだろう。
 それに、と静は続ける。
「お礼とか他にも色々あるけど……単純に皆に食べてもらえたらいいなって思ったから」
 それって、もうハロウィンと全然関係ないじゃん――。
 恥ずかしげに頬を染めて、しかし嬉しそうに話す静。対して、リョーマはあと一歩まで出掛かった言葉を飲み込み、溜息を吐き出すだけに留まる。今の彼女にどんな言葉を紡いでも、無意味だと悟ったのだ。
 ――それなら反撃は、今日のイベントに倣ってしてやろうと思い立つ。
「……ふぅん。じゃあ貰っとく」
「良かった、お口に合うと――」
「それじゃ、次はこっちの番。trick or treat」
 いいんだけど、と言いかけた静の声に、すかさず言葉を被せた。
「……えっ?」
「だから、trick or treatだって」
 突然発せられた流暢な英語に、静は訳が分からず首を傾げる。その様子にリョーマがもう一度繰り返したが、静はますます眉を顰めた。英語が聞き取れなかったわけではない。
 なんで今更。というより。
「お菓子なら、今渡したでしょ?」
 その手にあるものは何と言いたげに静は答えるけれど。
「これは先輩が勝手に配ってただけじゃん。それとは別に欲しいって言ってるんだけど」
「え、ええっ? でも部員分しか作ってないから……」
 はっきり言われてようやく理解するが、すぐさま首を振る静。改めて渡せる菓子は持っていない。バッグの中は見なくとも、人数分しか入っていないことは家を出てくる際、しっかり確認してきたから知っている。
 だからあげられない、と静は申し訳なさそうに謝る。しかしリョーマは断られるのを重々承知で――寧ろ見越していたのだろう。
「……あっそ。それじゃ、イタズラ決定だね」
 にたり、と口元に笑みを浮かべた。
 真面目で律儀な彼女は、恋人の――落ち着いて聞けばちょっと理不尽な――我侭を突っぱねることもできないし、かと言って誰か一人を除け者にはしたくないと思いも捨てられない。それが静の魅力だと知っていてもやはりヤキモチは妬いてしまうが、逆にそんな彼女だからこそ、リョーマはこんな無茶を通してみたくなる。
 否、通せると踏んで要求している節もあるのだけど。
「ちょ、ちょっと待って! どうしていきなりそんな話になるのっ?」
「いきなりも何も、先輩が始めてたことでしょ」
 途端に慌てる静に「俺はそれに便乗しただけ」と告げながら、リョーマはじりじりと距離を詰めていく。対して静は思わず後ずさった。時々見せるイタズラっ子のような表情に、今は危機感を覚えたのだ。
 けれど背後は部室。そして手を掴まれて引き寄せられたと同時に、リョーマの肩越しから続々と部員達がこちらへ向かってきているのが見えた。
 固まる静をよそに、リョーマの指先はとうとう頬に触れた。眼前に迫ってくるリョーマの顔に――まさか、こんなところで!
 何度も唇を交わしたことがある故に、否応にもその感触を思い出して体温を上昇させてしまう。
「まっ、本当に待って、皆が来てるからやめ……っ」
 リョーマと静が恋仲ということは周知の事実だ。しかし部員達の前で見せ付ける形になるのは本当に勘弁してほしいが、リョーマは離れてくれない。
 二人の距離までなくなるまであと数センチ。耐えられず、静はぎゅっと目を閉じた。
「……いひゃ、いひゃいっ」
 ――その瞬間。両頬を思い切り引っ張られる。咄嗟に痛みに上がった悲鳴は、しかしちゃんと形を成していない。
「何されると思ったわけ? 先輩って意外とやらしーっスね」
「~~ひょうまくんっ!」
「俺、そんな名前じゃないっスよ」
「……っ!」
 してやったり顔で言う恋人へ、静は言葉を紡げない代わりに早く解放してくれと睨んで訴える。
 恋人の間抜けな顔と怒りが込められた視線に、いよいよリョーマは声を上げて笑った。

(……先輩のあんな顔、こんなところで見せるわけないじゃん)
 現在の状況に必死な彼女には、リョーマの心の声は届かない。

 title by : 回遊魚