君しか見てない

その日、青学テニス部には見学人が訪れていた。『月間プロテニス』の編集者――井上、そして芝だ。二人は度々リョーマらを取材にしにやって来ているらしいが、まだ入部したての静は当然、初対面である。
 とりあえずマネージャーとして簡単な挨拶をしに向かったら、二人は大層驚いた。
 特に長い間、青学テニス部と付き合いがある井上は、どのような経緯で入部に至ったのか訊ねてきたほどである。
「あの……これも、取材の一部なんですか?」静は思わず問いかけた。
「いや、僕の単なる興味さ。何しろマネージャーに迎えられたのは初めてのことだしね」
 それで、と答えを促されたので簡潔に答えることにした。跡部が合同学園祭を開催したこと。その運営委員に抜擢されたことでテニス部と知り合ったこと。
「合同学園祭っ?!」
 その時、隣の芝が突如食らいついた。
「はい、テニス部主体となって二学期直前に開催されました」
「って言うことは、青学の他にも……?」
 目を輝かせる芝へ、静は少し戸惑いながらも丁寧に答えを返す。
「関東の七校が呼ばれていました。特別ゲストに四天宝寺の選手の方達も。かなり盛況でしたよ」
「えー! いいなぁ、私も行きたかったなぁ……」
「おいおい、芝」
「あっ、すみません……。ごめんね、広瀬さん。話続けてくれる?」
 このまま嘆き続けかねない後輩を、井上が制止する。話の途中だったことを思い出して芝は頭を下げた。
 閑話休題。
 合同学園祭。テニス部の運営委員。流れを辿ればそれらも今の静の原点だろう。だが静に入部を決意させた、最大のきっかけは――。
「越前くんが誘ってくれたんです」
 恋人からの誘いが何よりも大きい。
 帰宅部だった自分がいきなり、テニス部へ。そのことに不安は少なからずあったけれど、自分が役に立てる仕事を求めていた静にとって、その勧誘は断る方が勿体無かった。リョーマの勇姿を近くで観戦できる。側にいれる時間が増える――恋人としても嬉しい特典付きだ。
 勿論、部活中は彼への慕情よりもマネージャーとしての意識を高く持って、部に尽くしているつもりである。
「へぇ、越前君が」
 意外だと言う風に呟いて井上はそこで頷く。だが、芝は静をじっと見つめていた。

「ひ・ろ・せ……さん!」
 二人は本来の目的を達する為、コートへ足を向けた。
 それを見送ってから、静も途中だったマネージャー業務へ戻る。そしてドリンクを作り終え、タオルを準備していた時だ。弾んだ声が後ろから聞こえてきた。
「あっ……芝さん、でしたよね」
 振り向けば、にんまりとした笑みを湛える芝がそこにいた。何かありましたか、という質問に彼女は頷き、口を開いた。
「さっきの質問の時、気になったんだけど。……もしかしてあなたって越前君と付き合ってたりする?」
「……えっ!」
 伏せていた事実を指摘され、静の目が大きく見開いた。その表情の変化で芝は自分の予想が当たったことを確信する。
 ちょっと生意気な青学ルーキー。可愛げのない少年だったが、芝のお気に入りの一人だったのは確かだ。それだけに彼の隣にいきなり現れた少女の存在にはやはりショックを受けてしまうが、祝福を送りたくもある。
「ど、どうして分かったんですか?」
 頬に朱を散らしながら、静は彼女へ訊ねた。リョーマとの交際。公にすることではないと考えて告げなかったのに。
「だって私も取材を通して、彼を見てきたつもりだけど……越前君って他人に興味がないタイプじゃない。女の子にもクールな態度だし」
 リョーマへの心証と確信に至った経緯を語る芝の言葉は確かに的を射ていた。相槌を打ちながら静は聞き入る。
「広瀬さん、元々帰宅部だって言ったじゃない? でもそんなあなたをマネージャーに誘った……。それって、彼にとってあなたが特別だからじゃないかなって」
「そう……なんでしょうか」
 首を捻る。正直その後の告白でテニス部への誘い文句は吹っ飛んでしまっていた。今、彼女の口から紡がれているような甘い言葉ではなかったのは覚えているのだが。
「好きな子に近くで見てほしいって気持ちだったんじゃないかしら。あの越前君が、って考えるとちょっと信じがたいけど。でもなんだかんだ言って彼も男の子みたいだし」
 最後に「なんて、お姉さんの野暮な推測」と彼女は笑う。そうだといいな、と思いながら静もつられて微笑んだ。
「……って、いけない! 写真撮らなきゃ」
 二人が話しこんでいる間に、練習試合が開始されたらしい。静達の耳にストローク音が届く。芝は急いで首から下げていたカメラをコートへ向けた。そして素早く絶好のチャンスを逃すことなく、シャッターを切っていく。
「芝さん、撮影もされるんですね」
「ええ。と言っても実際、雑誌に載るのはこの中の数枚なんだけど」
 連写音が止んだ後、静はそっと彼女へ言葉を投げかけた。レンズから目を離して芝は苦笑気味に頷きながら話す。撮影した何十枚ものの中から、「それ」を選別するだけでも大変そうだ。
「今までもずっと撮影されてたんですか?」
「勿論。越前君が入部してきた頃から取材しに来てるから」
「そんなに前から……」
 名前は知っていても、静がリョーマと知り合ったのは学園祭からだ。そこからの付き合いの自分には知りえない姿を彼女はその目で、カメラで捉えてきたのだろう。そんな芝のことを羨ましく思う。出逢う時期がもう少し早ければ……とも考えるが、それを悔やんだところで意味がない。気持ちを抑えるように、静はぎゅっと自らの手を握りしめる。
 そんな中、芝が突然肩にかけていた鞄を漁り始めた。
「やっぱり持ってきてた。……ね、広瀬さん。これ、なんだと思う?」
「えっ?」
 探し物はすぐに見つかったようだ。にやりと微笑む芝に静は首を傾げる。鞄から覗くのは一冊の冊子。悪戯っぽい笑みを浮かべたまま、芝はそれを目の前に差し出してきた。
「地方大会から撮ってきた、青学選手達のアルバム。あなたの彼氏の写真もあるわ。……見たいでしょ?」
 受け取ると、彼女はその中身を説明してくれる。恋人の過去の活躍。諦めていた願望が叶うことに静は驚きと戸惑いの中、揺れた。
「い、いいんですかっ?」
 冊子から顔を上げて確認すると、芝からは頷きの代わりにウインク一つが返ってくる。
 ありがとうございます、とお礼を述べてから、静は震える手でゆっくりとページを開いた。

 *****

 部活からの帰り道。静はリョーマと共に帰路を歩いていた。
「あの人と何話してたの?」
 不意にリョーマがそういえば、と口を開く。しかしその質問はぼんやりしていた。
「あの人?」言葉を復唱して問いかければ「取材に来てた人」と返ってくる。それに当てはまった人物は二人いるが、リョーマが指しているのはきっとあの人だろう。
「あ、芝さん?」
 名前を挙げれば「そんな名前だったっけ」と言いながら頷くリョーマ。本当に名前を覚えるのが苦手らしい。今まで接触する機会は少なかったのかもしれないが、それでも自分より付き合いは長いはずなのに。
「話してたっていうか……地方大会からの試合の写真、見せてもらってたの」
 相変わらずのリョーマに苦笑をこぼしながら、静は答える。その時から凄かったのね、と最後に付け加えると途端、リョーマが露骨なまでに顔を顰めた。
「……ふーん。それでヘラヘラしてたってわけ」
「ヘラヘラって……そんな顔、」
「してたっス」
 一刀両断。否定の言葉は即座に切られてしまう。
 ばっさりとした言い方から、リョーマが不機嫌になっていること。そしてその理由を静はなんとなく感じ取った。リョーマは嫉妬深い。学園祭当時こそ気づかなかったが、付き合い始めて数ヶ月も経てばそれなりに分かってくる。
 自惚れでなければきっと今、彼はヤキモチを妬いているのだ。だがそれを本人に確認するのは止めておいて、
「……うーん、確かにしてたかも」
 前振りとして素直に頷いてみせる。ますますむすっとした顔をする恋人に、静は声を出さずに笑った。
 あの冊子にはリョーマに限らず青学全員の写真がファイリングされていた。けれど静の目に映ったのはただ一人だ。
「だって過去のリョーマくんもすっごくカッコよかったから」
 そう続ければ、リョーマは顔を赤らめて絶句する。やがて搾り出すように出されたのは「な、なにそれ」というどもった声。『クールな態度』と称されていた恋人の可愛らしい姿を愛おしく思う。
「色んなリョーマくんを見れて、嬉しかったなぁ」
 思い返し、静は笑みを深くした。――恋人の過去が知りたい。それを写真という形で満たしてくれた芝には感謝しなければ。ああ見えて、彼女は聡かった。二人の関係に気付いたり、口に出さなかった欲求を汲み取ってくれたり。単に静が分かりやすかっただけなのかもしれないが。
「……俺は最悪」
 そんな静とは正反対に、リョーマはうんざり、と言った風に溜め息を吐く。
「どうして?」
「だって……かっこ悪いじゃん。それに過去のことなんかどうでもいい」
「どうでもって……」
 憮然とした声でぼやかれるが、その言葉には賛同できず静は俯いた。過去があるからこそ、今がある。現在に続いているのだ。例えそれが自分の知らない時間だとしても、どうでも良くなんかない。
 反論しようと静が口を開くよりも早く、リョーマがそっと囁いた。
「俺は、今の方が大事だと思うけど」
 だから、もうこの話は終わりだと言いたげに、手を引き寄せられる。前を向いたままの彼の耳は、僅かに赤い。
「うん、そうね」
 リョーマの行動と言葉の意味を理解してしまえば、反論などできなかった。まるで――否、遠回しの愛の告白だ。くすりと微笑んで、静も手を握り返す。
 ――けれど、参った。リョーマに気づかれぬよう、静はこっそりと鞄へ目をやる。本当はこの中に仕舞っている物を見せるつもりでいたのだが……どうやらその機会を逃してしまったようだ。

 帰宅して静が真っ先に向かったのは自室の机だった。引き出しを引いて、そこから一冊のアルバムを取り出す。開いたページの片方には、既に二枚の写真がポケットに収められていた。夏休み明けに開催された合同学園祭の後夜祭での一枚。そしてもう一枚は先月に行われた全国大会の閉会後のものだ。どちらでも見事青学は優勝を飾り、記念としてテニス部全員で写真を撮った。
 空いているもう半面のページに視線をずらす。そして上部のポケットへ、鞄から一枚の写真を取り出してそっと差し込む。
 それは、芝がいつかの試合時でのリョーマを撮ったという写真だった。沢山ある中でもその一枚に静の目が奪われていたのを彼女はしっかりと見ていたらしい。
「仕事用のものを頂くわけには……」そう遠慮する静に「もう必要ないから」とやや強引に譲り渡してくれた。
「……やっぱり、いい顔してる」
 収め終わったそれをじっくりと堪能する。写真の中の恋人は、必死ながらもどこか余裕が見える表情でラケットを振っていた。今でこそ、いつでも見ることができるテニスプレイヤーとしてのリョーマ。しかし同じものだとしても、やはり現在と過去は別物だ。そして好きな人の過去を知りたいと思うのは当たり前の感情であって――肝心の相手はそうではなかったようだけど。
 過去を知りたい。出逢える前の彼のことも欲しい。そんな独占欲のような感情はまだ静の中で燻っている。でも今はもういいと思えた。リョーマの一言がそう思わせてくれた。
 そしてもう一人。
『でも、広瀬さんはもっと違う越前君を見てるんじゃない? あなたにしか見せない表情。あなたと過ごす時間。私はそっちも大事だと思うわよ』
 貰った写真を大事そうに持つ静へ芝はそう語ってくれた。
 出逢ってからの二人を大切に。
「……今度、一緒に撮りたいって言ってみようかな」
 決して写真が好きではなさそうだけど。二人の今を見つめていたいと伝えれば、了承してくれるだろうか。
 彼に打ち明けることが、もう一つ増えてしまった。けれどどうかと願う。
 最後のポケットが、リョーマとのツーショット写真で埋まる日を想像しながら静は微笑んだ。

title by : 金星