as if you were mine

「よし。では今から練習試合を行う。まず越前と桃城、第一コート。大石と河村は第二コートだ」
 少々の休憩を挟んだ放課後の部活動は、手塚の声によって再開される。辺りに響いたそれに静はノートから顔を上げた。どうやら今から行われるのは、大会と同じ形式での対戦練習のようだ。それに直接関わる仕事はないものの、彼女の視線は自然とコートへ注がれる。呼ばれたメンバーの中に彼女の恋人――リョーマの名前があったからだ。
「へーい! って、あいつ……どこ行ってんだ? おーい! 越前、試合始めんぞ!」
 リョーマと共に名前を挙げられた桃城は肩を回しながら一足先にコートへ、しかし肝心の対戦相手がいないことに気付いて声を張り上げた。静も思わず辺りを見回す。
 思えば休憩時間に入る前から姿を見ていない。
「ウイッス! ――静先輩」
「えっ?」
 桃城の呼びかけに間もなく。ふらりと現れたリョーマが返答する。片手には既にラケットが握られていたのでそのままコートに入るかと思いきや、予想外にも彼は静の元へやってきた。
「これ、試合が終わるまで持っててくんない?」
 どうしたの、と静が問うよりも早く。リョーマは脱いだジャージを静の方へ優しく投げてくる。コート上を走り回るならば長袖のジャージは不要だと判断したのだろう。
「あっ、うん。預かっておくね」
「サンキュ」
 投げつけたそれをしっかり受け止めてくれた恋人を確認してから、リョーマはようやく桃城が待つコートへ向かう。
 その背中に「頑張って」と声援を送ってから、静は改めて手元のジャージに視線を落とした。走ってきた姿も然ることながら、それの状態――裏返しになったままの袖や、背中についている微かな汚れ――が彼の慌ただしさを物語っている。
 先程まで静の行動範囲内にはいなかったリョーマ。登校中や昼休みにやたら欠伸をしていたことを思い出す。それらの事実を照らし合わせ、どこかで睡眠を取っていたのかもしれないと考えるのは容易かった。
 ――練習が終わったら、注意しなくちゃ。
 大方外れていないであろう想像にマネージャーとして心の中で呟きつつ、静は畳もうとジャージを広げる。一時的に預かっておくとは言え、このままの状態で持っておくのは嫌だと思ったのだ。
 青学ジャージは校内ランキング戦を勝ち抜き、レギュラーとして認められた者だけに渡される。その数少ないメンバーにリョーマは入部当初から仲間入りしていると聞く。ならば、ラケットの次に相棒と呼べる代物かもしれない。扱いは少々雑のようだが、その辺りへ無造作に置かずに静に預けるぐらいだ。大事だと思っているのは間違いないだろう。
 考えながら、静は手を動かしていく。袖を元に戻し、土の汚れを払う。学校指定のものとは違う、さらりとした手触りは触っていて心地良い。マネージャーになってからはほぼ毎日と言っていいほど目にしているが、静自身がじっくり触れる機会は無かった。
(……あれ、思ってたよりも……小さい?)
 だからこそ直接触れてみて、目視していた大きさに誤差があったことに初めて気が付く。よく考えれば当たり前だ。リョーマの背丈は静とさほど変わらない。
 リョーマの背中ではためいている時は、とても大きく見えていたけれど。どうやらそれはリョーマの不遜な振る舞いと彼への想いが補正をかけていたらしい。その事実に、静の口元が綻ぶ。それをリョーマに告げるものなら、100%の確率で彼の機嫌を損ねてしまうだろう。黙っておくのが賢明と判断する。
 ここで不意に、彼女の好奇心が疼いた。
 ――ちょっと着てみたいかも……。
 本人の知らぬ間に何をやってるのかと怒られるかもしれない。だが逡巡は僅かだった。結局、湧いた好奇心には勝てず「少しだけなら」と、静は人目がない場所へ移動してからジャージを羽織る。
 そろりと腕を通せば、肩幅も袖丈もほぼぴったりだった。振り向いて確認もしてみる。まるで包まれているような感覚。これで帽子を被れば、一見恋人に見間違えられるだろうか。
 なんてことを考えて、一人小さく笑う。
 ――それがいけなかった。
「広瀬せんぱーい! すいません、手伝ってほしいことが……」
「きゃっ!?」
 突如背後からかけられた声に、驚いて肩を跳ね上がらせる。
 振り返れば仕事を頼みに来たと思われるカチローが立っていて、静の悲鳴と姿にぱちくりと目を瞬かせていた。そんな後輩の戸惑いを見て、それ以上に静はしどろもどろになる。なんとか身を隠そうと両手をばたつかせるが、あまり意味はない。
「あ、あの、これはね……」
「おーいカチロー! あっちも手伝ってほしいって言ってきた……って、あれっ……。それ、越前のジャージっスか?!」
 自分の衝動に従ったことだから、言い訳はできない。けれど襲ってくる羞恥から逃れようと言葉を紡ごうとする静に、遅れてやって来たもう一人の後輩――堀尾が大きな声で訊ねてくる。
「ちょ、堀尾くん! 声大きいってば!」
 静の心情を察してくれたらしいカチローが慌てて堀尾を制するが、時既に遅し。周りから視線が集まり、そしてそれはコート上で試合をしていた彼らの目も例外ではなく。
「……すっ、すぐに行くから待ってて!!」
 ばちっとリョーマの視線とぶつかった瞬間。静はカチローへそう言い残すや否や、脱兎の如く逃げ出した。

「……なんで広瀬がお前のジャージ着てるんだ?」
 一方、コート上ではサーブ権を持っている桃城が、ボールを放つ前にリョーマへ問いかけていた。
 だが、問われたところでリョーマには答えられるはずがない。恋人がどうして自分のジャージを羽織っていたのか、それを預けた彼にも分からないのだから。しかしなんとなく想像はできる。好奇心に駆られて着てみたくなったのだろう。この予想は外れていないとリョーマは確信していた。時々、羨ましげに見つめてくる静の視線を知っていたから。
 まさか、袖を通すとまでは予想できなかったけれど。
「さては越前、お前……」
「は?」
「広瀬に言ったんだろ。『これ着てろ』って。で、それをあいつが真に受けて着てみたけど、やっぱ恥ずかしくなって……ってとこか?」
 何も言わないリョーマに、桃城は勝手にやりとりを想像して語ってくれる。そして最後に「相変わらず、独占欲丸出しだな」と笑った。
 ――何も言っていないのに。っていうか、相変わらずってどういうことっスか。
 反論と質問を投げかけたかったが、言葉にするのは止める。
「……そうっスよ。悪いっスか?」
 ここは生真面目な恋人の為にも、ひとまず頷いておいた。「嘘も方便」――いや、嘘で終わらせるつもりはない。あの光景を日常にしてしまいたい願望が、リョーマの胸にあった。
 悔しい事実でもあるが、レギュラージャージを着ている者の中で静と似た背格好の人物はただ一人……リョーマしかいない。となれば、彼女が誰の恋人なのか一目瞭然。周りへの牽制にも繋がる。先程、堀尾が一瞬にして静が羽織るそれをリョーマの物だと悟ったように。
 しかしあの静のことだ。直接言ったところでどうして、と訊ねてくる可能性は充分有り得えた。その問いに素直に答えても頷いてくれるか分からず、かと言って上手く言いくるめる自信もなく、今日まで何も言わないままだったけれど。どんな理由であれ、彼女の方から言い出すきっかけを作ってくれた。これを利用しない手はない。
 にやりと笑うリョーマに、何を思ったのか。むっとした桃城が「部活中にいちゃつくんじゃねぇよ!」と妬みの声を飛ばす。妄想を口にしたのはそちらだろうに――とは言わず、とりあえず「羨ましいなら早く彼女作ればいいじゃないっスか」と返してみせる。
 次の瞬間、リョーマのコートへ悔し紛れのサーブが打ち込まれるのであった。

 *****

 その後。部室へ駆け込んだ静はあまりの羞恥心にへなへなとその場で崩れ落ちた。しかし、マネージャー業をサボるわけにもいかず、なんとか顔の火照りを鎮めるとすぐに後輩達の元へ走った。
 頼まれた仕事と残っていた雑用を片付けている間、静は気まずさにコートへ一度も目を向けられなかった。それでもリョーマ達の練習試合に決着が着こうとしていることを、審判役を務める部員の声で知ると、再び部室へ足を向ける。置いたままにしている恋人のジャージを取りに行く為に。
 怒られるか、はたまた呆れられるか――自分の行動に対するリョーマの反応がどんなものであれ、預かっていた物だ。ちゃんと返さなくては。
 扉を開け、真っ直ぐ向かったのは部屋の隅に鎮座している縦長の椅子。そこに座ると、慌てて脱いだ為に預かった時よりも酷い状態のジャージへ手を伸ばした。
 裏返しになっている袖を戻し、今度こそ丁寧に折っていく。それ自体は大した作業ではない。だが途中からこみ上げてきた恥ずかしさに耐え切れず、静はたたみ終えたばかりのそれに顔を埋めた。
 些細な好奇心だった。ほんの少しだけ楽しむつもりだった。なのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろう……。
「今度は何やってんの?」
 一人で悶える静の背後から、再び声がかかる。しかし、その声の主は。
「り、リョーマくんっ」
 がばっと上体を起こすと、そのすぐ後ろには静を不満げに見下ろすリョーマ。すぐ近くに来ていたと知らず、本人の物を下敷きに唸ってしまっていた。ジャージを差し出しながら、静は慌てて言葉を紡ぐ。
「ご、ごめんね! このことだけじゃなくて……さ、さっきのことも! ダメかなって思ったんだけどちょっと着てみたくなって、つい。でも、やっぱりいけなかったよね……本当に、ごめんなさい」
 語尾に向かうにつれ、小さくなっていく声量。同時に頭を下ろし続ける静へ、遂にリョーマは言葉を返す。
「なんで謝んの? 俺、嬉しかったんだけど」
「……え……どうして?」
 見上げてきた静の表情は困惑の一色に染まっていた。ああほら、やっぱりだ。考えていた通りの返答に、リョーマは嘆息する。
 恋人の衣服に身を包む――その行為がどういう意味合いを持つのか、そしてリョーマが何を思うのか。考えてもいない。
 ――相変わらず、独占欲丸出しだな。そう言って笑った桃城の言葉を反芻する。
 相変わらずかどうかはいざ知らず。しかし己が独占欲が強いことを、リョーマは静と付き合いだしてから自覚していた。だって仕方ないじゃん、と誰に言うでもなく心の中で呟く。
 年上の彼女は頭の回転は速い癖に、鈍感で……それでいて無防備なのだから。
「俺の先輩だって、見せ付けてくれたみたいで」
「見せっ…………や、やだっ! そんなつもりじゃ、」
 恋人の口から放たれた言葉を、その真意を。はっきり汲み取った途端、静は絶句する。しかしすぐに否定の声を上げた。
「けど、周りはそう思ってる。桃先輩とか、あと英二先輩とかもからかってきたし。……否定してもあんまり意味なかったから、頷いておいた」
「え、ええっ?!」
 そう言いながらリョーマの口元は緩んでいる。部の先輩達に静との仲をからかわれることは嫌だったけれど。今回に限っては寧ろ、感謝したいぐらいだ。
「だからさ。これからそれ、先輩に預けるから。明日もちゃんと着ててよ、さっきみたいに」
 金魚のように真っ赤な顔で口をぱくぱくさせる静。
 そんな彼女が面白くて可愛くて。受け取ったばかりのジャージをその肩に再び羽織らせると、リョーマはそっとキスを落とす。
「嫌なわけないっスよね? 俺に断りなしで着たぐらいなんだし?」
「……~~っ」
 彼女が完全に沈黙するまで、きっと十秒もかからない。

title by : 金星