なんでもない日、知らないふり

――それは唐突に私の背中を占領した。
「……リョーマくん?」
 二人きりの空間、ふと後ろから何かがのしかかる。その正体はたった一人、彼しかいない。ゆっくりと腕が腰に回されたかと思うと、背後に息遣い、そして彼の体温が伝わってきて私は動けなくなる。緊張からではなく、指一本でも動かせば彼が離れてしまいそうで――それは嫌だと思った。
「なに」
 外では素っ気ないけれど、決して触れ合うことを嫌っているわけではないらしい。手を繋ぎたいと強請れば応じてくれるし、初めてキスをしたのも彼からの誘いがきっかけだった。身長のことを気にしているみたいだけど、ちゃんと抱きしめてもくれる。
 恋人同士のスキンシップとしては、他の人達と頻度も行動も変わらない。そして、今もその一種なのだと言われればそうなのだろうとも思う。
 でも何か違うのだ。いつもの触れ合いとは少しだけ。振り返ることもできないから顔は見えないけれど、触れている場所から異なったものを感じる。
「どうしたの、いきなり?」
「別になんでもない」
「……」
 小さな違和感に思わず問いかけた。返ってきた答えはたった一言。しかしその僅かな声音から疲労が拾い取れた。
 そういえば、と今更思い出す。先週、彼はアメリカから日本へ帰ってきたばかり。だというのにもう学校に来て、部活にも参加していた。近々大会を控えている為、ハードな練習。それに加えて南次郎さんとの対戦も欠かしていないと聞く。いくら体力があると言っても、疲れていないわけがない。
 皆の前では何ともない顔をしていたから、気にも留めていなかった。寧ろ忙しい中、それでも「二人で過ごしたい」と言われて浮かれてさえいた。
 だけど本当はこうやって息を吐き出す場所が欲しかったのだと思う。だからこそ、今日誘ってくれたんだろう。休息を確保したい為に。そこが私の隣――正確には背中なのだけど――ということが嬉しくて、そして同じくらい悔しかった。ちゃんと見ていたはずなのに気付けなかった自分と、素直じゃない彼に対して溜め息を吐きたくなる。
 きっと弱っている姿を直接見せたくなくて、こういう形での抱擁なのだろうだけど。そんな彼だから謝ったり、またはっきり訊ねたところで頑なに否定するに決まっている。
「付き合ってるんだから別にいいじゃん。……それとも嫌なわけ?」
 どう返せばいいかな。思案して黙っていた私を不審に思ったのか。彼は更に言葉を付け足す。あくまで抱きしめたことについては「なんでもない」と言い張るらしい。
「ううん、そんなことない。……このまま抱きしめていてほしいな」
「ん、了解」
 天邪鬼ね、と評する声は飲み込み、この身を預けようと力を抜く。
 少しでも疲れを癒せるなら――甘え下手な彼が満足するまでされるがままでいてあげよう。
 先輩あったかい、と笑う気配に、私も小さく微笑んだ。