「あっ、いたいた。静せんぱーい!」
「小坂田さん」
ある練習試合の日。ノートを手に試合経過をチェックしていると、チアガール衣装の小坂田さんがこちらに向かって走ってきた。彼女はリョーマくんのファン一号らしく、試合があると青学の、リョーマくんの応援に来てくれる。最初は少し、彼の恋人である私を受け入れてくれるか心配したこともあったけど、今ではすっかり仲良くなっていた。好きな人をこういう風に共有できることは、とっても嬉しい。
「今日も来てくれたんだね。って、あれ……竜崎さんは?」
小坂田さんの溌剌とした笑顔に、試合を前にして緊張していた心がほぐれる。しかし、いつも彼女の隣にいるはずの竜崎さんがいないことに気付いた。
「桜乃は今日、用事が入ったみたいで来られないって連絡があったんです」と小坂田さんは親友の不在についてそう答える。
リョーマくんの試合、応援してほしかったなぁ――彼のもう一人のファンである彼女がここにいないことを残念に思う。そっか、と頷く私に小坂田さんはテンションを上げて言った。
「だから! 今日は静先輩と一緒にやろうと思って!」
「一緒に? 何を?」
「応援ですよ、応援! これ着て一緒にリョーマ様を応援しましょう!」
「…………えっ?」
そう言って小坂田さんが差し出してきたのは、恐らく彼女が身に纏っているものと同じ衣装。小坂田さんの放った言葉の意味がすぐには理解できず、彼女とその手元、交互に見比べる。
「私や桜乃と同じ衣装なんですよー。静先輩も絶対似合いますから!」
「……えっと、ちょっと待って。つまり、私もそれを着て応援するって……こと?」
「そう言ってるじゃないですか!」
彼女の姿を改めて見る。二の腕と腹部を思い切り晒すことになるベスト。そしてこれまた、制服より丈が短いスカート。肌の露出度が高すぎるそれに、眩暈が起きたような感覚に襲われる。
「~~無理っ! 絶対無理! そんなの恥ずかしい!」
私の悲鳴に近い叫びに彼女は動じず、大丈夫ですよとあっけらかんに言った。おまけににこやかに微笑んだと思ったら、サイズはばっちりですから、と自信たっぷりに一言。その情報はどこから入手したのか、と色々聞きたいことはあるけれど。
今はそれどころじゃない。彼女の誘いにちゃんと断らないと。その時ふと、握りしめた手の中のノートに気付いて私は咄嗟に口を開く。
「……そ、それに、私には仕事があるからダメよ! マネージャーが仕事放り出して、応援なんて出来ないわ」
真っ当な主張と断りの言葉にも、小坂田さんは怯まない。
「あぁ、そのことなら私の方から桃城先輩に言っておきましたから。既にOK貰ってますよ」
彼女の言葉を証明するように「おおーい、マネージャー! 早く着替えてこいよー」と、少し遠くから桃城くんの声まで聞こえてくる。逃げ道は完全に断たれたらしい――。思わず絶句する。
「ね、大丈夫でしょう?」そんな私を安心させるように小坂田さんが囁いた。
「あ、あのっ、でもね、小坂田さん?」
「ほら、早く着替えちゃいましょう。リョーマ様の試合までもう時間ないですよ!」
なんとか回避したい一心で抵抗するけど、ほらほら、と私の背中を押す彼女には勝てなくて。
「今日来れない桜乃の分まで! そしてリョーマ様の為! 二人で応援頑張りましょう!」と力説されながら、私は小坂田さんに連行されてしまうのだった。
「……あっ、リョーマ様ぁ!」
言われるまま、小坂田さんとお揃いのユニフォームに着替え終える。そして青学の応援場所まで戻ると、丁度リョーマくんがウォーミングアップから帰ってきたところだった。小坂田さんがすかさず声を上げる。
リョーマくんの視線はこちらに移り、私達を捉えた途端――白いツバの下から覗く目が驚愕を表すように大きく見開いた。その表情が、諦めの境地だった私を一気に現実に引き戻してくれる。
応援をするのだから彼に見られるのは当たり前のことなのに、それを改めて意識するともうダメだった。恥ずかしさで顔が熱い。
「今日は静先輩と一緒に応援しますから、頑張って下さいね~!」
「ちょ……小坂田さんっ!」
そんな私に気付かず、小坂田さんは握りしめた私の手と一緒に腕を振り上げた。だけど当のリョーマくんは私達に何も反応しないまま、コートに入っていってしまう。
「相変わらずクールですよね~リョーマ様。ま、そんなところがいいんですけど!」
小坂田さんは呑気にそう言う。彼は確かにぶっきらぼうだけど、いつもはそんなことないのに。……私の格好が見るに耐えなかったのかな。彼の態度が冷たい理由なんて、それぐらいしか思いつかなかった。
ちゃんと断れば良かった――と思っても「後悔先に立たず」。試合開始の時間は刻一刻と迫っている。恥ずかしさで居たたまれなかったけど、大好きなリョーマくんの試合は見逃せない。目を瞑りながら、審判の声を待った。
やがて試合が始まると、隣の彼女がいつものように振り付け付きで応援を始めた。
「L・O・V・E、リョーマ様ぁ!! ほら、静先輩もご一緒に! せーの、でいきますよ。せーの!」
「……え、え、える、おー……」
ポンポンを元気よく振りながら声を張る小坂田さんに続こうとしたけど、つい口ごもってしまう。
――L・O・V・E、リョーマくん。小坂田さんと竜崎さんのお決まりの応援文句。近くで聞いていた時には、「こんな風に応援されるのは嬉しいだろうなぁ」と微笑ましかっただけなのだけど。自分がやる立場になって初めて、かなり勇気がいる行為だと知った。
「もう! もっと大きな声じゃなきゃ、リョーマ様に届きませんよ?」
「でも、」
先輩、と真剣な声が私の反論を遮る。
「以前、私達の声援が必要だって言ってくれたのは静先輩じゃないですか。それに、静先輩はリョーマ様の彼女なんですから、恥ずかしがってちゃダメですよ! ……先輩の声は、私の、私達の声に負けないぐらいでなきゃダメです」
「小坂田さん……」
「リョーマ様も、先輩の声が聞きたいと思いますし。ね?」
彼女の言葉を噛みしめる。リョーマくんをずっと応援していた二人。その人が私に負けてほしくないと言っている。
なら……恥ずかしくても、頑張らなきゃ。こんな機会、なかなかないのだから。声を張り上げることも身を包む衣装もまだ恥ずかしいけれど。腹を括って力強く頷くと小坂田さんが微笑む。
「じゃあ、もう一度最初からいきましょう。……せーのっ!」
「L・O・V・E、リョーマくん!!」
「L・O・V・E、リョーマ様っ!!」
精一杯の気持ちを込めて、声援を送った。次の瞬間、まるでそれに応えるように、リョーマくんは相手のコートに強いスマッシュを打ち込んだ。
*****
「……ちょっと来て」
「え……っリョーマく、きゃっ!?」
見事に勝利を収めて、コートから戻ってくるや否や。リョーマくんは真っ直ぐこちらに歩いてきたと思うと、私の手首を掴んだ。
彼の突然の行動に戸惑い、咄嗟に小坂田さんへ手を伸ばしたけど――先ほど繋いでいてくれたそれはひらひらと私達を送り出す動作を取る。小坂田さん、と縋るような声を上げても、彼女は終始笑顔のままだった。
リョーマくんの歩く速度はいつもよりも少し早くて、それに追いつけない私の腕は必然的に引っ張られてしまう。掴まれた部分がじんわりと痛い。でもそれよりも彼の背中から感じる空気の方が怖かった。
この様子から察するにリョーマくんは怒っている。だけどその怒りは何に対して?
羞恥に耐えることとリョーマくんの試合を見守ることに必死で、ついさっきのことなのに記憶がふわふわしていて、よく分からない。
「……なんて格好してんの?」
「あっ……!」
やがて休憩所から死角になっている辺りに来ると、リョーマくんはようやく立ち止まる。しかし振り向いた彼は俯きがちで、相変わらず視線が合わない。怒っているのだとは分かっても、なんで私がここまで連れ出されたのか。その理由までは流石に心当たりがない。
かと言ってこちらから聞くのもどうかと思い沈黙していると、何故か上がっていた息を整えてリョーマくんは訊ねてきた。
格好、と言われてはたと思い出す。今の自分は、チアガール衣装のままだったことを。あっ、と声を上げると、リョーマくんがじろりとひと睨み。こみ上げる恥ずかしさなんて二の次、正直なことを話せ、とこちらへ向けられる視線が言っていた。
鋭い眼差しに負けていきさつを素直に答えると、リョーマくんは大きくため息を吐いた。だと思った、と小さく呟いたのをどうにか聞き取る。
「先輩のことだからどうせ断れなかったんだろうけど。でもマネージャーの仕事放り出して、何やってるわけ?」
お人好しも大概にすれば。そう言う彼の声は冷たかった。そのリョーマくんの言葉に、ふと気付かされる。
小坂田さんの押しに負けたからとか、桃城くんが許可したからとか。表向きは状況に流されたように見えて、だけど本当はどこか心の隅で彼女達のように堂々と応援したいと考えていた自分に。流石にチアガールの衣装に身を包んで、とまでは考えていなかったけれど。
「……ごめんなさい。遅いかもしれないけど、今から戻って仕事――」
「…………鈍感」
まずはリョーマくんに頭を下げて。そしてこれ以上、リョーマくんに呆れられない為にも早く戻らないと、と顔を上げた直後。
身体を引き寄せられたと思うと、肩に何かが掛けられる。青と赤のラインが視界に入った。いつの間に持ってきていたんだろう。それは彼の青学ジャージだった。
「先輩達、声大きすぎ。……目立ってた」
羽織らせられたそれがずれ落ちないように両端を握りしめる私を、彼は横目で見ながらため息混じりに言う。その時、リョーマくんの髪の間から覗く耳の赤さに気付いた。
「もしかして、」
言葉も態度も明確ではなくて、だけどようやく彼の言いたいことが読み取れた気がした。
勘違いじゃないといい、自惚れじゃないといいと願いながら、私は言葉を紡いだ。
「ヤキモチ、妬いてくれたの?」
その問いかけに、リョーマくんの視線が泳ぐ。帽子のツバをますます下げて、彼は返す。
「……先輩が妬かせたんだろ」
はっきり告げるつもりはなかった事実を認め、彼はバツが悪そうな顔になった。先輩が悪い、と言いたげなその表情があまりにも可愛くて、愛おしくて。
「っ……うん、」
「ねぇ。俺、怒ってるんだけど」
「うん……うん、」
「……本当に分かってるわけ?」
リョーマくんの抗議にも呆れた声にも、私はただ頷くしかない。
だって――。
(すごく恥ずかしかったけれど、この衣装着て良かった……なんて)
そんな現金な考えを聞かせたら、彼をもっと怒らせるのは分かっていたから。胸に秘めたままでいようと決めて、リョーマくんの腕に寄り添った。
――この一連の騒動が小坂田さんと桃城くんに仕組まれたものだと、私が知るのは当分先のこと。