降り積もる愛おしさ

昼休み。お弁当を完食し、さてこれからどうしようかとリョーマが考えていた時だ。隣で箸を動かしながら堀尾が口を開いた。
「そういや越前。そろそろ行かなきゃならないんじゃねーの?」
「どこに?」
「先生に委員の仕事あるって言われてたじゃん」
「……あ」
 言われて思い出す。今日はリョーマが属する1年2組の図書委員が、「昼休みの図書室開放」の担当だった。クラスが多い為、月に一度回ってくるか否かの頻度であることもさりながら、委員は二人制だ。仕事を忘れがちなリョーマに代わって、もう1人の図書委員が仕事をやってくれることが多かった。
 しかし、そのもう1人が本日欠席の為、必然的にリョーマがやらなければならない。
 面倒くさいと一言で片づけられれば、どんなに良いだろう。だが、今回ばかりは避けられない事だ。リョーマは小さな溜め息をつくと、ノロノロと職員室へ向かった。
「はぁ……」
 受け取った鍵を手のひらで遊びながら、リョーマは再び息を吐き出す。いつもならば、窓からの暖かい陽射しを受けて眠っているはずなのに……。恨み言を口に出さずに呟きつつ、進める足取りはとても重い。
 委員の仕事と言っても、需要があまりないことを彼は知っていた。図書室の利用は、何も昼休みの20分に限られたことではない。授業で利用することもあれば、放課後、部活が終わるまでの数時間、開放される曜日だってある。よって、昼休みのわずかな時間を利用する学生は数人程だ。その事実を知っているが為に、尚のこと億劫に感じてしまう。
 リョーマは読書が嫌いな方に入る。なのに図書委員になったのは、委員会を決める話し合い時に居眠りをしていたからだ。ある意味自業自得と言えるが、例え他の委員になっていたとしても、彼のやる気のなさは変わらなかっただろう。
 絶えず出てくる欠伸を噛み殺し、最後の階段を上る。目的地まであと数メートル。大してやることがない数十分間をどう過ごそうかとぼんやり考えながら、そこに視線を向けた。すると彼の目に飛び込んできたのは、図書室の前で佇む先客――それも見知った姿だった。
「……静先輩?」
「あっ、リョーマくん」
 誰も通っていない廊下に、決して大きくないリョーマの声が響く。腕に数冊の本を抱えたまま彼女は振り向くと、小さく微笑んだ。

 *****

 扉を開け、二人は室内に足を踏み入れた。ひんやりとした空気を感じると自然と声を抑えてしまうが、そんな中、静は嬉しそうに声を弾ませる。
「リョーマくんって図書委員だったのね」
 その姿に、先ほどまで体に蔓延していた眠気はどこへやら。リョーマも満更じゃない様子で相槌を打った。
 ――リョーマと静が合同学園祭をきっかけに、恋人同士となって2ヶ月程が経過した。当初、無愛想だから云々と部の先輩達に心配されていたが、そんなものをよそに二人の仲は続いている。リョーマの愛想がよくなったわけじゃないがその分、静が彼からの分かりにくい愛情をちゃんと理解してくれているからだろう。
 ただ学年が違うことによって、リョーマと静がお互いの隣で共に過ごす時間は少ない。故に予期しない遭遇は、二人にとって嬉しいものだった。
 早速リョーマは入口横に設置されているカウンターに入り、静から返却の本を受け取った。本に添付されている帯出者カードに目を通して、返却日とそこに済と彫られた判子を押していく。
「じゃあ、これは俺が直しておくから」
「うん、お願いするね」
 そう言うや否や、静は奥へと歩き出す。彼女に続くようにリョーマも立ち上がった。返却の本を棚に戻す為だ。
 普段なら、さっさと終わらせてしまう作業。だが、基本的に他人の趣味に興味がないリョーマも、静が借りたとなると気になってしまう。戻すべき場所へ足を進めながら、手に持つ本をそっと開いた。
 それは以前、面白いからと言われて借りた本とは少し異なるようだった。その本よりも活字がぎっしり詰められたページを見てすぐに読む気は失せたが、大雑把に単語を拾っていく内にこれが推理小説だと理解する。
「ふうん……」
 ――先輩って、こういうのも読むんだ。漏らした声はたった一言だったけれど、静の新たな一面を知れたことは、リョーマの口元に笑みを浮かばせた。
 それから数分後。仕事を片付けると、リョーマはゆっくりと辺りを見回した。さっきから静の姿が見えない。「先輩?」と呼びかけながら棚の間を探していくと、彼女は奥のコーナーで、頭上の棚に手を伸ばしている最中だった。
「ん……っと」
 お目当ての本の背表紙に触れているものの、目的物を掴むには至っていない。そんな静にすぐに声はかけず、リョーマは渋々といった感じで近くに置かれていた脚立を取った。それは決して静に呆れただとか、面倒くさいだとか、そういった類の感情が漏れ出たのではない。静とさほど身長が変わらない――寧ろ、リョーマの方が僅かに小さい――今のままでは、彼女を助けたくても道具に頼らざるを得ない……その事実が彼の表情を渋くさせた。
「俺が取るっスよ」
「え、あっ……」
 格好悪いところは見せたくない。だからと言って、何もしないのはもっと嫌だ。リョーマは静にそっと近づくと、その横で脚立を開く。2段ある内の1段目に足を乗せるだけで、易々とそれに届いた。
「はい。これでしょ?」
「……」
「先輩?」
「あっ、ありがとう」
 苛立ちは一旦胸に留めつつ、彼は待っている彼女の方へ本を差し出す。しかし、静がそれに反応するには数秒かかった。こちらをじっと見つめていたにも関わらず、だ。
「何?」
 訝しげな視線を送れば、静は頬を赤くしながら口を開いた。
「こんな感じなのかなぁって思って」
「何が?」
「乾先輩が予想してる、二年後のリョーマくん」
「……なにそれ」
 ますます眉を顰める恋人の様子に、彼女は少し笑ってから語り始める。
 静がマネージャーになった後、暫く面倒を見ていたのは青学テニス部のプレーン・乾だった。学園祭での一連のことで、静のことを気に入ったのだろう。最終的にデータを彼女に任せて、彼は引退した。
 その乾が言うには、青学の柱を引き継いだリョーマに欠けているものがあるという――175センチ以上の身長だ。故に彼がレギュラーになって以降、部活中に牛乳2本を飲むことが義務化されていて、それは今も変わらない。
 いつもは「テニスに身長は関係ない」と豪語するリョーマも、この時ばかりは何も言えなかった。テニスなら天性の才能と身につけた技で、いくらでもカバーはできる。
 だが、静の前だとそれはプライドを傷つける足枷でしかない。先程のように恋人を助けたいと思う場面が来ても、体はそれに見合っていないのだ。身長なんか、と一蹴していても、彼女の隣にいれば必ず悔しさが残る。
「だから、再来年にはこうやって見上げてるのかなって」
 そんなリョーマの心境を知ってか知らずか。近い未来を想像して微笑む静が、すらりと紡いだ言葉。それはリョーマの将来に期待を寄せていると同時に、これからも隣にいるという宣言のようだった。勿論、彼女の中には例の約束のこともあっての発言だろう。それでも、静の言葉に彼の機嫌が直らないわけがなかった。
「へぇ……」
 まだ見えない未来のことを考えても意味がない。そう、今までは思っていた。けれど――。
 白い指や薄い肩。小さなつむじ。目線が変わるだけで、愛しさが増して映る。そういった彼女の全てを、いつか包み込むように抱きしめられるのだろうか。その時に思いを馳せると、リョーマは誓いを強固なものにした。
 結局、リョーマにジレンマを抱かせるのも彼女であれば、それを目標に変化させてくれるのも静なのだ。
 静と出逢ってから少しずつ変わりつつある自分に、リョーマは気付いていた。でもそれは彼女に強要されたからではない。静の笑顔や言葉をきっかけに、変わりたいと彼自身が思ったからだ。
 子供っぽい年上の恋人にお願いされて、嫌いな牛乳を「仕方ないか」と言いつつ飲み続けていたり――人はそれを惚れた弱み、と言うかもしれないけれど。
「……先輩はそれ以上伸びなさそうだしね」
「そ、そんなことないよ。私だって、あと少しは伸びると思う」
 こそばゆさを隠そうと意地悪に返せば、静は予想通り口を尖らせた。その仕草に手を伸ばしたくなる。しかしぎゅっと手を握りしめると、リョーマはそっと脚立から降りた。
 今はまだお預けだ。
「別に、そのままでもいいじゃん。……キスはしにくそうだけど」
「えっ?」
 リョーマの声を拾い切れなかった静は首を傾げる。「なんて言ったの?」と訊ねられても、彼はご機嫌な表情でこう返すだけだ。
「その時が楽しみって言っただけ」
 ――夢見るその日は、きっと近い。

title by:寡黙