わざわざ会いに来てしまいました

全国大会で見事青学を優勝へ導いたリョーマだが、彼の才能は日本一で収まるはずがなかった。
 そんな時だ。更なる高みを目指す為、故郷でもあるアメリカへ来ないかと誘われた。
 もっと自分の力を試してみたい。もっと強い奴と戦ってみたい。考えれば考えるほど、溢れるテニスプレイヤーとしての追求心。
 渡米したい――話を聞いた時点で、彼の中で気持ちは固まっていた。
 ただ、一人の存在が彼を悩ませた。それは家族でもなく、ましてや仲間達でもない。恋人の静だ。
 態度や言葉には出さないが、静はリョーマにとって大切な存在。傍にいてほしいし、隣にいたいと思う。
 だが彼女を想う気持ち以上に、テニスに対する強さへの欲求がリョーマの中にはあった。
 ――いってらっしゃい。頑張ってきてね。
 旅立ちの日。そう言って笑顔で手を振る静の姿に、心中を言い表せない思いが去来しても、リョーマは何も言えずにいて。
 だからその言葉を、密かに待っていたのかもしれない。

 リョーマがアメリカに渡って、一ヶ月。
 元々半年程前まで住んでいた土地なので、リョーマが変化した環境に慣れるのは簡単だった。環境が変わってもテニスはできる。
 けれど、周りに青学のチームメイトはいないし、隣を見ても静の姿はない。当初はその事実と感覚のズレに戸惑うことがあったが、今となってはそれもほぼ無くなっていた。
 チームメイトとは特に連絡はしないが――たまに桃城や菊丸からメールが来るぐらいだ――、恋人の静とは一度も連絡を途絶えさせたことはない。
 しかしお互い学生の身であり、何より十四時間の時差がある。その為、電話を掛け合うのは週に一度だけ。
 だからこそ他愛のない話、たった数分の会話でさえも大事にしたいと思う。そして、その日も彼は携帯に耳を傾けていた。大好きな静の声に。
『そっちはどう? 体調、崩してない?』
「俺は平気。そういう静先輩こそ、テニス部の練習、ついていけてる?」
『大丈夫だよ』
「ふーん」
『あっ、信じてない』
 適当に返事をすると、静は不満そうな声を上げる。それを耳にして、リョーマの口元には笑みが浮かんだ。電話越しでも静は分かりやすい。自分の返答に、彼女はきっと頬を膨らましているだろう。
『本当だよ? 皆の練習についていってるもの』
「はいはい」
『もう……。あ、そうだ。リョーマくん』
「何?」
『リョーマくんの今住んでる住所、教えてくれるかな?』
 これ以上何を言ってもリョーマを言い負かすことはできないと思ったのか、静は話題を変えた。
「いいけど、どうして?」
『えっと、送りたいものがあって』
 突然の質問に若干驚きながら、リョーマは住所が記載している紙を探し始める。
「送りたいもの?」
『そろそろ寒くなるでしょ? だから、マフラー送りたいなって思って』
「……それって、先輩の手作り?」
『うん。……つけてくれる?』
「ん……いいよ」
 遠慮がちに問いかけてくる恋人に、リョーマは小さく頷く。その返事に静は心底ほっとしたように、息をつくのが聞こえた。
『ありがとう。でも色がなかなか決まらなくてね、まだ編み始めたばかりなの』
「色?」
『うん。毛糸の色。たくさん種類があったから』
「へぇ……」
『本当はリョーマくんに合わせてみて、作りたかったんだけど……』
 そこまで言うと、静は口を閉ざしてしまう。彼女が飲み込んだ言葉が安易に予想がついて、リョーマも沈黙するしかない。
 どんな言葉を紡げば、この空気を、静の気持ちを浮上させることができるんだろう。
 考えても、リョーマには思いつくものは何もなかった。
「せんぱ――」
『会いたい、な……』
「え……」
 とても小さな呟きだった。だが、彼の耳にはしっかりと届く。息を呑んだ。いや、言葉が出なかったという方が正しいかもしれない。
 無意識に落とされた、静の本音。耳朶をうったそれは感情の波となって、リョーマの心に押し寄せた。
『あ、れ……』
 数秒後、我に返ったのか、静は途端に慌て出す。
『……あ、あの、違うの! 今のはそうじゃなくて、その……ご、ごめんね!』
「ちょ、待」
 もう切るね、と言うや否やリョーマに反論させることなく、静は通話を切った。
 彼の耳元でツーツーと無機質な音が暫く鳴る。掛け直しても、ただコール音が続くだけだった。
「にゃろう……」
 思わず悪態をつく。
 まるであの時と同じだ。学園祭の準備期間最終日――リョーマの脳裏に、夕方の広場で佇んでいた静の姿が浮かぶ。
 ただその時と違うのは、彼女を引き留めることができなかったことだ。
 ――会いたい。そう言った静のか細い声が蘇る。
 否定していたけれど、彼女は確かに言った。
 静は正直だ。時々、心に溢れた感情そのものを口にすることがある。さっきの言葉も恐らく、その癖から出たものだろう。それはイコール、静が今の現状を寂しいと感じているという、何よりの証拠だ。
「ったく……」
 彼女の一言が気付かせたのは、それだけじゃない。
 一ヶ月前、渡米行きを打ち明けられた時の静は戸惑ってはいたものの、涙は見せなかった。
 リョーマは静に泣かれると弱い。もしもいやだ、行かないでと潤んだ目を向けられたら、どうしたらいいだろう。そんなことを考えつつ、いざ告げると、彼女は応援すると言ってくれた。
 本来なら安堵するべき瞬間。しかし、静の微笑みはリョーマの心に一つわだかまりを作ってしまった。
 あれからずっと、彼の心をじりじりと燻ぶらせていた感情――その正体が静と同じものだということ。
 日本を、いや、仲間や恋人の元を離れてそうまでしてテニスを追いかけたのは、リョーマの意志だ。故に今まで寂しいと思うことも、それを口にすることも許されない気がしていて。
 だけど――静の言葉を聞いてしまった今なら。今だからこそ。
「俺だって……」
 その先を言うことなく、彼は荷物を手に取ると部屋を後にした。

 *****

 翌日。
 少し遅い朝ご飯を食べ終え、片付けを済ませると静は自室に戻った。
 物音一つしない家を見回して、息を吐く。
 先程一緒に食事をした母親も仕事に出かけて、広瀬宅には誰もいない。こういうことは共働きの両親を持つ静にとって、日常茶飯事だった。
 だから家にたった一人という現状に、不満を感じることはない。しかし、今日に限って違った。
 一人になると、どうしても思考は昨夜のことに向いてしまう。
 机の上に置いた編み物に目を向けても、そんな気分にはなれない。寧ろ、視界に入ってしまった瞬間、彼女の気分は更に落ちてしまう。
 会いたい。そう口走ったのは、ほぼ無意識のものだった。電話をする前も、会話中もそんなことを言うつもりも、思っているつもりもなかったのに。
 自分が編んだそれを、身につけてくれると言ったリョーマの声が殊更優しくて。
 でも、その姿を静は見ることができない。その事実を認めてしまうと、胸が痛かった。
 写真や動画――見ようと思えばいくらでも方法はある。だけど、そんなんじゃ足りないのだ。直にその目で彼を見たくて。
 自身の中で溢れた切望の大きさに、静は深いため息をつく。
「私のバカ……」
 あれから何度かリョーマから着信があったにも関わらず、静は通話ボタンを押すことができなかった。
 逃げてちゃだけじゃ駄目だと知りつつも、彼の反応を確かめるのが怖かった。
 我侭だと思われただろうか。自分勝手だと。応援すると言って彼の背中を押したのは、静なのにと呆れられてしまっただろうか。
 謝りたい。気にしなくていいよ、と。そうしたところで、言ってしまった言葉を取り消せないけれど。
「それでも、ちゃんと言わなきゃ」
 じゃないと、いずれリョーマを失ってしまう。それだけは嫌だから。
 静はふと壁の方へ視線を移す。悶々と悩んでいる間に時は過ぎていたようだ。時計はいつの間にか午後一時を指していた。
 アメリカは真夜中だ。今掛けたら、確実にリョーマの迷惑になる。
「お昼の材料、買いに行かなきゃ」
 さっき見た冷蔵庫の中身では、お腹を充分に満たすものが作れそうにない。
 気分転換としてもちょうどいい。買い物に行こう。
 携帯から目を離す。結局逃げてしまう自分自身に、嫌悪感が溢れた。

 *****

 来客のチャイムが鳴ったのは、静が着替え終わり、まさに今出かけようとしていた瞬間だった。
「はい、どちら様――」
 ですか、と続くはずだった。しかし、インターホンに映った姿に静は言葉を失った。
 そんなわけない。でも、見間違うはずがない。靴も履かず、慌てて扉を開ける。
 自分が知り得る世界とは程遠い距離の国にいるはずのリョーマ。その彼の姿が、見慣れた風景にあった。
「どう、して……」
 まるで幻を見ているかのような静の眼差しに、リョーマは肩をすくめる。
「なんで、電話出てくれないの?」
 携帯電話を見せながら、彼が答える。
 その発言に、静は必死に言葉を紡いで反論しようとするが、音として出てこない。なんで、どうして、どうやって。聞きたいことは沢山あるのに。
 その間にも、リョーマは静の元へ一歩ずつ近づいていく。
「言い逃げはずるいんじゃない?」
「そ、そういうつもりじゃ……」
 ごく当たり前のように言葉を交わすが、静は今の状況についていけない。しかし心は正直なもので、疑問が増える中、それ以上に喜びに満たされていく。
 引き締めたはずの涙腺に、涙が溢れ出した。
「ごめ、ごめんね……」
 頭が真っ白になりながらも、静は懸命に自分の思いを伝える。
 あんなことを言うつもりじゃなかった。リョーマを応援する気持ちは本当だから。
 言えば言う程、言い訳がましい。いや、本当にただの言い訳に違いなかった。
「謝って欲しくて来たわけじゃない」
 そんな静に、リョーマは首を振って答える。
「……会いたいって、先輩が言ったから。だから来ただけ」
 リョーマは立ち尽くす彼女の傍まで来ると、静の頬に手を伸ばした。
「……先輩って、意外と泣き虫だよね」
「だ、って……!」
「俺がわざわざ会いに来たんだから、笑ってくれなきゃ……ヤダ」
 無理な注文なのは明らかだが、リョーマは敢えて言う。
 静だって、こっちを振り回してくれたのだ。だったらお互い様だと胸中で呟く。
 本当の理由は違うのに、心の中でさえも素直になれない自分。静が、だとかわざわざ、だとか、事実を曖昧にする自分自身に呆れてしまう。
 でも聞かれていないのに真実を話すことはない、とリョーマは考える。
 格好悪い自分を曝け出すことは、まだ彼にとって恥ずかしい行為にしかならないのだ。
「リョーマく、ん」
 耳をくすぐる小さな呼び声に、顔を上げる。静の笑みはとてもぎこちないもので、リョーマはふっと笑みを零した。
「……まだまだだね」
 言葉とは裏腹に、リョーマの腕は静を優しく抱き寄せるのだった。

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