てのひらに隠した恋心

「静~!」
「! 由芽ちゃん!」
 作業が一段落し、書類に目を通していた静に声がかかる。慌てて後ろを振り返ると、走ってこちらに向かってくる友人の姿が目に映る。
「久し振りー! あ、今大丈夫?」
「うん、丁度終わった所だよ」
「そっか。じゃあ、食堂行かない?」
「うん! ちょっと待ってて、先輩達に休憩行ってくるの知らせてくるから」
 数分後、笑顔で帰ってきた静と共に、二人は食堂へ足を運んでいった。
「もう夏休みも終わりだね」
「そうだねー。静はもう宿題終わった?」
「うん、終わったよ」
「えー、私まだなのに」
「ふふ、頑張って」
「……はーい」
「それにしても由芽ちゃん、焼けたねー」
「そういう静は全然じゃない。こんな暑い中走り回ってるって聞くのに」
「私は日に当たっても焼けるどころか、真っ赤になるだけだから……。由芽ちゃんが羨ましい」
「いいじゃん。静は今の方が可愛いし」
「もう……、またからかう」
「そんなんじゃないって」
 昼食時のせいか、食堂には既に各学校の生徒達があちこちのテーブルを独占していた。静達は話を続けながら、目の前に丁度空いた席を見つけ、腰かける。
 実行委員に選ばれてから静は忙しく、由愛との時間も少なくなっていた。故に、彼女達の会話は賑やかなこの空間の中でも一際、盛り上がっていく。
「どう? 運営委員の仕事は?」
「大変だけど、やりがいはあるよ……あり過ぎるくらいかな」
 そんな2人の話題は現在、静が実行委員として選ばれたこの学園祭へ移っていく。
 帰宅部だという理由で実行委員に選出されたと思っている静だが、由芽にはそれだけではないと感じていた。
 静は何事にも真剣に取り組み、成果を残そうと頑張る女の子だ。些細な事にでも努力を怠らない。その頑張りを教師にも評価されているのだろう。だからこそ静が選ばれたのだ。
 しかしそれが過ぎて、自身を追い詰める所があるのも彼女は知っている。
「静は真面目なんだから、ちょっとぐらい手抜きなよ?」
「そんなこと出来ないよ」
「……頑張り過ぎないようね」
「うん、ありがとう」
 心配でそうやって声をかけて、平気だと言い張る友を見たのはもう何度目か。由芽は苦笑して、次の興味に話を持っていく。
「そういえば、テニス部の人達はどうなの?」
「皆いい人達だよ」
「へぇ……ってそうじゃなくて!」
「?」
「気になる人とかいた? ってこと」
「え、ええっ?!」
「一人ぐらいいたんじゃないの? テニス部の人って結構ファンクラブあるくらい、カッコいいし」
「う、うん……。けど皆カッコいいし優しいけど、そんなこと考えたことないよ!」
 突然の、そして予想外の質問に、静は慌てふためきながらも答えた。本当かなぁ? とにやにや笑いながら疑いの眼差しを向けてくる友人に、本当だと必死に言い返す。
 初々しい静の反応が可愛いらしく、由芽はまだからかいをやめようとしない。まだ静をいじめることができそうなネタを、彼女は握っているからだ。
「はいはい。けど……確か一年生の越前くんだったけ? 仲いいみたいだったけど」
「え……リョーマくん? そんなことないよ?」
「え! 何、いつから名前呼びするようになったの!?」
「少し前からだけど」
「どうして? 何がきっかけ?」
「一緒に帰ってくれてた時に、リョーマくんに名前の方が呼びやすいからって言われて」
「…………」
「由芽ちゃん?」
 これは由芽にも予想していなかった会話の発展だった。自分の問いに「そんなことない」と答えるだろうと予測していたのだが、まさか恋に疎い静の口から、男子の名前を聞く日が来るとは思ってもいなかった。
 自分が知らない内に、友人の周りは慌しく変化しているようだ。本人が気付かぬ間に、確実に。
「……へぇ、そうなんだ。だからかぁ」
「何が?」
「誤魔化さないの。二人が仲良さそーーに話してるの、私見たんだから」
「ええっ? ちょっと話してただけだよ?」
「それにしては、やけに楽しそうだったけど?」
 声掛けづらかったんだからねー、と由芽がいたずらっぽく笑うと、静は弱くかぶりを振る。
「そんなことないよ……リョーマくんにはからかわれただけだし」
「でも私、越前くんが笑ってるの初めて見たよ?」
「……え?」
 何度かテニス部に見学に行った事がある由芽は、一年生にしてファンクラブが結成されている越前リョーマを見て驚いた。
 “スーパールーキー”と呼ばれる彼は、猫を思わせる大きな瞳が印象の、端正な顔立ちをしていた少年だったが、なかなかの生意気ぶりで表情もあまり変わらない。そんなクールな所がいいのだと、ファンの友達は言っていたが。
「越前くんって、女の子に応援されてもプレゼント渡されても無愛想だし。他人には興味ないって感じだった」
「そう、なんだ……」
(あれ、静……落ち込んでる?)
 話題に上がったことをいいことに、彼に対し辛口評価をしていると、見る見る静の表情が曇りだしていった。
 自分が仲良くしている人のことをあれこれ言われるのは、彼女にとっても気分が悪いものかもしれない。それに気付くと、由芽は慌ててフォローを入れる。
「……あのね! だから静に対する態度っていうか、雰囲気がちょっと違っててびっくりしたんだよ」
「そ、そうかな?」
「うん、私が感じた限りじゃ」
「そっか……」
 ――でも、それだけ?
 ほっ、と一安心したような笑みをこぼした友人の姿を見て、その疑問は更に深まる。心に引っかかった違和感に、由芽が考え込もうとした矢先――。
「――静先輩」
「えっ、リョーマくん?」
 噂をすればとやら、話題に上がっていた彼が現れた。
「どうしたの? 何かあった?」
「先輩達に言われて呼びに来たんス。なんか会議始めるとか」
「え、え? もしかして私、忘れてた?」
「だとしたら?」
「え、嘘、本当!?」
「嘘。急遽やることになったみたいっスよ」
「もう……、リョーマくん!」
「はは」
 突然の本人登場に驚く由芽を尻目に、リョーマにからかわれながらも、静はテーブルに置いていた書類をまとめて素早く立ち上がる。
「ごめん由芽ちゃん、私、行くね」
「――あ、うん。それじゃ私も帰るね。今日は色々ありがとね」
「ううん、こっちこそ話聞いてありがとう。じゃあ、また夜電話するね!」
「うん、待ってる。……あっ、静」
「えっ?」
 立ち去ろうとする静を、慌てて呼び止める。
 静と友達という間柄になって2年目を迎える彼女の記憶に、今みたいに頬を桃色に染めてふわりと笑う彼女の姿はない。けどそれは、女の子なら誰もが経験した事のある気持ちを持った時に見せる表情だということに、由芽は気付いてしまった。
 そしてそれを本人が自覚していないことにも。誰よりも早く――本人よりも先に――彼女の心に芽生え始めた感情の名前を見つけた由芽だったが、それを言うまいか悩んだ結果――。
「……ううん、なんでもない。頑張って!」
「うん!」
 ――彼女の自覚を待つことにした。
 先輩、と静を促して去っていく彼と友人の背中を見送った後、由愛はぼそりと呟く。
「……こういうのは自分で気付いた方がいいよね、うん」
 さっきは雰囲気にのまれて気付かなかったが、ちゃっかり静も彼に名前を呼ばれている事。そして、彼が静の名前を呼ぶ時の優しい声、静をからかうあの笑顔。
 それが何を意味するかさえも、2人の甘い雰囲気を目の前で見せつけられた由芽には理解できた。
 無愛想で生意気。年下とは思えないあの態度とは違い、静に見せるその姿は年相応だ。どうやらリョーマに対する評価を改めなければいけないようだ、と由芽は反省しつつ。可愛らしい恋の行方を思い、応援してるからねと微笑んだ。
 *****
「…………」
「? 何スか?」
「えっ、あ、ううん、なんでもないの」
「ふーん。それじゃ、早く行くよ」
「う、うん……」
『でも、私、越前くんが笑ってるの初めて見たよ?』
『越前くんって、女の子に応援されてもプレゼント渡されても無愛想だし。他人には興味ないって感じだった』
『だから静に対する態度っていうか、雰囲気がちょっと違っててびっくりしたんだよ』
 リョーマの後ろを追い駆けながら、静は先程別れた友達の言葉を思い出していた。それがどんな意味を示すのか、もやもやとした想いに流されそうになりながらも、必死で考える。
(……ううん、そんなことない。あるわけ、ないよ)
 それはやがて、静の希望であり、そして真実である答えに辿り着こうとするのだが、彼女の意志がそれを阻止した。
 もしそれが自分の思い違いであったら。自惚れに過ぎなかったら――。もうすぐやってくるその日が哀しくなるから。
 ――けれど。
「、きゃっ!?」
「……先輩、何もない所で転ぶなんて器用っスね」
(……恥ずかしい……)
「――ほら」
「えっ?」
「立ち上がらないの?」
「あ、ありがとう……」
 手を差し伸ばしてくれた彼の表情が柔らかくて。自分を立ち上がらせてくれるその力も優しくて。
 錯覚かもしれない。静の勘違いなのかもしれない。だとしてもそれが今、自分に向けられているのだと理解した瞬間、心が跳ね上がる。その音を静はしっかりと耳にした。
「急ぐよ。部長に怒られるから」
「うん……!」
 小さいけれども力強いその手に引かれて、静は一歩大きく踏み出して走り出す。
 ドキドキと加速する鼓動。高鳴る胸。夏の暑さとはまた違う身体の熱を感じて、ぎゅっと目を閉じながら。
 “早く目的地へ着いて欲しい”という願いよりも、大きくなっていく“彼ともう少し一緒に居たい”という想いを揉み消すかのように、静は彼に掴まれた手を握り返すのだった。