夢の果てに瑞光

「ごめんね。私、リョーマくんの隣にいられない」
 目の前ではっきりとそう告げた恋人の声は、今まで聞いたことのないトーンだった。
 難しいことなど何一つ言ってはいないはずなのに、それでも何を言われたか理解できず、越前リョーマがいきなり何、とだけ返せたのは数十秒後のことだった。
 
 それは、リョーマが恋人の広瀬静と出逢って九年近く経ったある日のことだった。それまでの間、幾度か喧嘩をしたり、想い合うが故にすれ違うこともあったが、お互いに相手への気持ちを大事に抱えながらずっとその手を離さないでいた。
 なのに、どうして突然。冗談にしてはタチが悪い。いや、そもそも静はそんな冗談や嘘などを口走る人間ではない。
 生真面目なのにおっちょこちょいで、聡いけれど鈍感で、リョーマより一つ年上だと主張する割には子供っぽい。
 リョーマが知っている広瀬静は、ずっと隣にいてくれた愛する人は、そういった人間だ。それはリョーマが一番知っている。
「……ごめんね」
 もう一度繰り返されたのは、たった四文字の言葉。されど普段は明るく、感情豊かな恋人の、温度も感情も見えない声音はリョーマの心を急激に冷やしていく。否応にも先程の発言が本心であることを、改めて突きつけられた気がした。
「……なんで?」
 国を跨ぐ距離の遠さに、耐えられなくなった?
 テニスばかりを優先する俺に嫌気がさした?
 それとも――俺以外に、好きな人ができた?
 考えれば考えるほど、静が「隣にいられない」と言った理由が思い浮かぶことに愕然とする。
 けれど実際そうなのだ。リョーマ自身、静をとても深く愛している。だがテニスコートに立ち続ける為にその愛する恋人を置いて、酷い時は不可抗力とは言え、連絡すら取らないこともあった。
 それでも二人が手を繋いでいられたのは、すべては静が寛大でいてくれたから。テニスをしているリョーマくんが大好きだよ、と笑って背中を押して、見守ってくれていたから、リョーマは今までやってこれていたのだ。そう、はっきり言ってしまえば静の優しさに、自分への好意に甘えっぱなしだった。
 だからもし――もしも万が一、二人が手を離す時が来るとしたら、それはきっと静の方からであり、またその責任はリョーマが受け止めなければならないだろう。なんて、考えたくもない可能性を想像する度に心の奥底で決心していた。例えば静がリョーマ以外の人を好きになったという理由で別れたいと言ってきたとしても、静を責められるわけがない。越前リョーマという人間は、一番大切な人よりもテニスを優先してしまう男なのだから。
 そういったことすべてを覚悟した上でラケットを握り続けていたはずなのに。いざその可能性が現実になった今、どうだろう。
 別れることを拒絶している自分に驚き、それ以上に落胆を覚えた。
「……こんな、今の私のままじゃ……リョーマくんの支えになれないから」
「……な、」
 短い問いかけに俯いたまま、そう返してきた静に、リョーマは思わず声を張り上げそうになった。
 支えになれないってなんだよ。今の私のままじゃ、ってなんだよ。俺が怪我で挫けかけた時も、優勝を手にした瞬間も、なんでもない日でも、ずっと俺の心に寄り添ってくれてたじゃないか。それで十分助けられてたんだ。テニス一つで生きていけるって思い込んでた俺に、ラケットを握らない時間すら尊いことを教えてくれたのは誰でもない、静なのに。
 なのになんでそんなことを言うの。
「だからごめんね、リョーマくん。……さよなら」
 衝動のままに叫んだ本音は、しかし静には届かず。咄嗟に手を伸ばしても去り行く背中を引き止めることはで――――――――――、
 
 
 
 
 
「…………っ!」
 息苦しさから目を覚ました瞬間、辺りは真っ暗闇に包まれていた。短い呼吸を何度か繰り返し、辺りに視線を彷徨わせた後、リョーマは自分が夢を見ていたのだとようやく理解する。
 やけにリアルな夢だった、と笑うことができれば良かったのだが――リョーマはたまらず両手で顔を覆った。バクバクと心臓の音が身体中に響く。布団に包まっていて寒いわけでもないのに震えている。
 それでも自分自身を落ち着ける術を知っているリョーマは、何度か深く息を吐き出した。今こうしてベッドに横たわっていることが現実だ。嫌な夢を見ただけだ、と自分に言い聞かせるように心の中で繰り返し、そして隣へ視線を動かす。
 夢の中で別れを告げてきた恋人は、今はリョーマのそばで眠っている。昨日一緒に休日を過ごし、共に眠りに就いたのだ。だからその寝顔を、その温度さえ確かめられたら大丈夫。なんてことない。
「……しずか?」
 しかしリョーマが手を伸ばした先には綺麗に整っているシーツ。眠っていたはずの静の姿は、そこにはなかった。
 今度こそリョーマの中から冷静さは失われた。
 
 
 
 ――バンッ!!
「ひゃっ!?」
 ベッドから飛び出した勢いで寝室の扉を開けた衝撃はそこそこ大きかったようだ。目の前に広がったリビングの中央。そこにあるソファーに座っていたらしい静が、肩をびくりと震わせると同時に振り向いた。
「びっくりしたぁ……」
「…………っ」
「どうしたの? こんな時間に起きてくるなんて珍しい。あっ、もしかして起こしちゃった……?」
 音の正体がリョーマだと知ると、安堵の表情を見せた静はゆっくりとソファーから立ち上がり、リョーマへ駆け寄ってきてくれる。
「いや…………っていうか静こそ、なんで起きてんの……」
「少し目が覚めちゃって――って、本当にどうしたの!? 顔色、すごく悪い……っ!」
 近付いてようやく、静は恋人の異変に気付いたらしい。慌てふためきながら両手を伸ばし、リョーマの頬や額に触れてくる。瞬間、華奢な肩にかかっていた赤いチェック柄のブランケットがひらりと床に落ちた。お気に入りなの、と言っていたそれを、代わりに拾おうと手を伸ばしかけたリョーマだが、静の方はリョーマの痛みこそ拾い上げようと必死な形相だ。
 ひとまず座って、と静の温かな手に導かれ、先程まで静が座っていたソファーにリョーマも腰を下ろした。その間に静は寝室から持ってきた毛布をリョーマの背中にかけてくれる。
 自分の顔を覗き込む恋人の表情は硬く、ただただ心配の色を滲ませていた。
「怪我が痛むの? それともどこか違うところが痛い……?」
「ん、いや……そうじゃなくて……ちょっと変な夢見ただけ」
「ゆめ? ……こわい夢?」
 うん、と素直に頷くことが出来たのは、背中をさする掌が心地良かったからかもしれない。
 リョーマはテニスプレイヤーとして日々鍛錬を重ね、試合に挑み、その度に充実感と気持ちのいい疲労感を抱えて帰ってくる。当然その体に蓄積した疲労は、帰宅後にしっかり時間をかけてその日の内にケアをしてから眠りに就く。そういったサイクルで毎日を過ごしている為、夢を見ていたとしても覚えていないことの方が多い。ごく稀に覚えていても、数分程経てばどんな内容だったか、もう頭の片隅にすら残っていなかった。
 だというのに、今日に限っては違った。数分以上経った今でも脳にこびりついたように簡単に思い出せてしまう。それほどまでに恐ろしい夢だった。
 ――否、正確に言うなればあれは実際に起こった出来事だった。
 あれは今から一年ほど前のこと。リョーマと静、二人とも新しい環境に身を置き、その場所に、やり方に慣れようと神経をすり減らす毎日を送っていた。上を目指して、または人に求められて励む日々は尊く、美しい。忙しくもあったけれど、それでも喜びがあった。
 だが代わりに、一番愛しい人との時間は短くなった。ただでさえ日本とアメリカという長い、長い距離。今までは飛行機に飛び乗って静に逢いに行っていたが、ツアー中はどうしたって厳しい。一度だけ無茶なスケジュールを組んで逢いに行ったリョーマに「自分のことを優先して」と静は珍しく怒ったので、それ以降は止めた。
 ただどれほど相手を想っていても、信じていても、やはり会えない間は寂寞と苦痛を伴う。遠距離と多忙な日々が二人の心を暗く閉ざしてしまう前に、もういっそのこと「アメリカに来てよ」と、静の手を取ろうか、とも考えたことがあった。けれど世界を相手にラケットを握り続け、自分がまだまだ未熟であることを思い知ったリョーマにはその一言を告げる勇気はなかった。リョーマに逢う為に何度も足を運んではいるものの、静にとってアメリカはまだまだ見知らぬ土地。そんな場所に何も覚悟が出来ていないだろう状態で連れてくることは、自分の我儘でしかないだろう。
 静が関わるととことん臆病になってしまう自分が格好悪いと思いつつも、それでも嫌いにはなれない。
 せめて今年の四大大会で優勝を飾ることができれば、その時に――。普段、勝利の為の目標など全く考えないリョーマが、初めて自分自身と誓い合った。
 そんなことを考えていた矢先。二人の絆を揺さぶる試練が訪れる。リョーマが試合中に思わぬ怪我を負ってしまったのだ。
 ツアーは途中で棄権し、出場を目指していた四大大会は欠場せざるを得なくなった。最初は怪我を押してでも出ようとしたが家族やコーチに止められ、最終的には治療に専念することを選んだ。
 もちろん静も連絡を受けてリョーマの元へ急いで駆けつけてくれた。だが怪我で苦しむ最愛の人に対し、今の自分には何も出来ず、また仕事を放り出してまで傍にい続けることも出来ない。ただただ自分の無力さを痛感してしまった――と後の静はあの時の心境を語ってくれた。
 任された仕事や責任を投げ出さないことは素晴らしい一面であり、誇るべき長所だ。リョーマが静と出逢ったあの学園祭でもひたむきに全うした。そんな真面目な静だからこそ、リョーマは惹かれ、好きになったのだ。
 だから数日後に帰国せねばならないと辛そうにする静に、気にしなくていいとその背中を見送った。様子を見に来てくれただけで本当に嬉しかったのだ。寧ろ、自分は静が辛い時に傍にいてあげることすら出来なかったことが心苦しかった。
 来てくれてサンキュ、と、俺は大丈夫だから、と少し強がって笑ってみせた――けれど。
『……ごめんね。私、リョーマくんの隣にいられない。本当にごめんなさい……っ』
 それが仇となってしまったらしい。それから一カ月ほど経ち、怪我もある程度回復してきたある日のこと。療養がてら久々に実家に戻ってきていたリョーマに、静は別れを宣告してきた。
 
 その場面が、今日夢で再現されたのだろう。夢の中では静を引き止めることが叶わず、その手が離れてしまった。だが現実世界のリョーマは恋人の胸の内を聞き出し、話し合えた。
 不安に思ってること。未来の展望。思えばちゃんと語っていなかった、心に秘めていたことをお互いに全て打ち明けることが出来た。それが叶ったのは周囲の優しさのお陰であったことを、一生忘れはしない。
 そして数ヶ月後。初出場で初優勝を掻っ攫った四大大会。その直後、リョーマは一世一代のプロポーズをした。
 プロポーズは見事成功。一度は離れかけた手と手は重なり合ったまま、同じ未来を見つめる約束を交わすことができたのだ――。
 
 
 
 そっか、と一言返した後、静は自身の体にリョーマの強張っている体を引き寄せ、ただひたすら無言でその背中を撫でてくれている。その心地よさに、温かさに、何よりも静が隣にいてくれるという現実に、リョーマの強ばった心も体も体温を取り戻していく。
 夢の内容に関して、静は深く追究しようとはしてこなかった。それがまたリョーマの心をいち早く安らげてくれた。
 もし聞かれたとしても、本当のことは言えない。言いたくない。過去であったとしても、静はリョーマを再び苦しめたと、きっと自分を責めるだろう。潜在意識か記憶の整理か分からないが、リョーマが勝手に見た夢なのだ。現に静はこうして隣にいてくれている。わざわざ「昔の夢を見た」なんて打ち明ける必要はないと思った。
(……あったかい)
 小さな肩に頭を乗せながら、静の呼吸を感じながら、深く、深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。
 薄く小さかった体はトレーニングと成長により逞しくなった。また身長が伸びて見える景色が変わった。結果、世界のプロ相手でも勝利を手にすることができる。今やリョーマも立派なプロテニスプレイヤーだ。
 けれど愛する唯一の人の――静の包み込んでくれるような優しさの前では、ただの年下の男に戻ってしまう。
 たった一歳の差。されど大きな差に思春期だった昔は色々と悩んだし、年上らしく振舞う静にそんなことしないでほしいと思ってしまった時期もあった。
 ただそれも静をすっぽりと抱きしめられるような体や、彼女を守る力を持てたことによって気にならなくなった。現在は寧ろその優しさに素直に甘えてしまおうと思っている。その方がリョーマも静も、お互いに嬉しく、幸せなのだと、数年かけて理解できたから。
(……あれ)
 不意に膝に置いていた自分の左手が視界に入った。ごつごつとした、皮膚の厚い指先。テニスボールとラケットと、そして静の手を掴んで離さなかったてのひらだ。
(あぁ、そうだ。今日は……)
 瞬間、大事な予定を思い出す。今日は――二人が大切な未来への一歩を踏み出した証である婚約指輪を一緒に選ぼうと約束していた日。夢の所為で記憶から一時的に忘れていたが、昨日もベッドの中で静と指輪についてあれこれ話しながら眠りに就いたのだ。
 本当は前もって用意しておくべきだったのだろうが、なんとプロポーズ後に気付くという失態を犯してしまった。ただもうそれならば静が気に入るデザインをその手に付けてもらおうと前向きに考え直したのだが。
「そっか……」
 どうして、今更、あの出来事を夢として見たのか。起きてからずっと頭の中で渦巻いていた疑問が、今分かった気がする。
 今更、ではなく、今だからこそ。きっとリョーマは自分に改めて警告をしたのだ――愛する人の傍から離れるな、と。
「どうしたの?」
「なんでもない。……サンキュ、落ち着いてきた」
「本当?」
 顔を覗き込まれ、再び頬に手が伸ばされる。その表情は至って真剣で。本来なら真っ直ぐ見つめられると恥ずかしいリョーマも、この時ばかりは目を逸らさずに静の言葉を待った。
「……うん、顔色良くなってきてる。良かったぁ……」
 静がふにゃりと微笑んだ瞬間、ぐぅぅ……とリョーマのお腹が鳴った。一瞬の沈黙。しかしすぐに顔を見合わせて、お互い同時に小さく噴き出す。
「ふふっ、体も大丈夫そうだね。そうだ、何かスープでも飲む?」
「ん、そうする」
「コーンポタージュの素があったと思うから用意してくるね。待ってて」
 そう言い残し、キッチンに移動しようとするその後ろ姿に、リョーマも着いて行く。ソファーにはリョーマの温度が残った毛布だけが取り残された。
「座ってていいよ?」
「……横にいたらダメなわけ?」
「ううん、そんなことない。じゃあ……これ代わりに羽織っててくれる?」
 ぴったりと引っ付いて離れようとしないリョーマの様子に静は一度首を傾げたものの、すぐににこりと笑ってリョーマの肩にブランケットをかけた。
 そして「私もなんだかお腹空いちゃったから一緒に飲もうかなぁ」なんて言いながら、お湯を沸かす準備を始める。
 今までだって見つめていたはずの横顔。また、未来でも噛み締められるであろう喜び。
 だけどその幸福に、絶対も永遠もないのだ。
 今こうして二人がいる時間を大事にしようと、リョーマは改めて胸に刻みつける。
 
 
***
 
 
 それから二時間後。
 コーンポタージュで体を温めた後、すっかり目が覚めた二人はまだ早朝であったが少し早めの朝食をとった。そしてそのまま、指輪を選ぶ予定のジュエリー店へ向かう為、出掛ける準備に移る。
 最初、睡眠不足を案じた静が「少し寝てもいいよ?」と言ってくれたが、恐らく眠り直すと確実に昼過ぎまで寝てしまうだろうという、確信めいた予感がリョーマにはあった。
 ジュエリー店はそう遠くなく、移動時間は長くはならない。しかし指輪のデザインを選ぶ時間は長めにあった方がいい。それに何よりも静が乗る飛行機の搭乗時間――実は指輪選びも兼ねて一昨日からアメリカに滞在していた。そして本日が帰国の日なのだ――というタイムリミットもある。故に昼過ぎから出掛けていてはあまり余裕がないのだ。
「ねぇ、そういえばさ」
「なあに?」
 朝食の後片付けを終え、着替えも早々に済ませた静は宿泊用の荷物を入れたキャリーバッグの中を開けて、忘れ物がないかと最終確認をしている。その背中を見つめるリョーマはふと、今更であるが気になっていたことを問いかけた。
「静はなんであんな時間に起きてたの」
「えっ」
 途端、静がぎくりと大袈裟なぐらいに肩を揺らす 。明らかな動揺。
「……まさか、静の方こそ具合悪いとかじゃないよね」
 いつも朝ごはんを用意してくれる静。リョーマより先にベッドを抜け出していることは珍しいことではないけれど。
「違うよ、私は全然元気! 朝ごはんの準備しようかな~って思って起きただけよ」
「あの時、まだ四時前だったけど」
 リョーマの心配は杞憂だと言わんばかりに、静は明るく笑い飛ばそうとする。しかし残念ながらその言い分に素直には頷けない。だって朝ごはんの準備にしては早すぎるし、何よりもあの時の様子は準備の為に起きていた感じではなかったからだ。
 畳みかけると、う、と静は言葉を詰まらせる。相変わらず嘘をつくのも、胸の内を打ち明けるのも下手だ。
 リョーマは静の方へ近づき、その目を見つめて、しずか、とその名を呼んだ。
「言いたくないことなら聞かない。けど悩んでることがあるなら、話せる範囲でいいから話してよ。……もう一人で抱え込まないって約束したじゃん」
 今日帰国したら二人はまた少しの間、別々の暮らしに戻る。日本とアメリカでそれぞれ過ごしつつ、家族になる為の準備を行うのだ。次に逢えるのは年内かまたは年明けになるのか、今のところは分からない。
 その間、電話やメッセージアプリで欠かさずやりとりするだろう。けれど、互いの手の温度や視線の行き先などが分かるこの瞬間でしか聞き出せない本音があることを、リョーマは知っている。
「……本当に体調は問題ないの。大丈夫。……ただ……」
 リョーマの訴えに逡巡し、だがやがて覚悟を決めたらしい。静が重い口を開いた。
「……今日……指輪を買いに行くって約束……でしょう?」
「うん」
「それで……昨日眠る前に色々と二人でお話したよね?」
「した」
「……でね、それで色々と考えてたら……」
 一旦言葉が途切れ、再び沈黙が落ちる。そんなに言いにくいことなのだろうか。不安を滲ませた表情がリョーマの心を跳ねさせる。
「しず――」
「…………きっ、緊張しちゃって……!」
「……え?」
 予期していなかった答えに固まるリョーマを知ってか知らずか、静はぱっと顔を上げて、だって、と言葉を続ける。
「本当にリョーマくんと……こ、婚約したんだって改めて実感して……」
「……」
「あっ、でも今まで全く実感してなかったってわけじゃないよ!? なんだろう、その……形として見える、触れるものとして、私やリョーマくんの指に在るってことはきっと、ううん。絶対すごく嬉しいんだけど、なんだか恥ずかしいなぁとか……。それに私、今まで指輪ってつけたことがなかったから、どんな感じなのかなとか想像してたら、その……眠れなくなっちゃって……」
 いつも落ち着いた話し方をする静が、興奮気味に、かつリョーマの誤解を解こうと必死に語るその様子が愛おしくて。
 嫌な予感も、心配も、まさに杞憂だった。あぁ、良かった、と安堵の笑みがこぼれる。
「あーっ、笑った! 子供っぽいって思ったでしょうっ!」
「ごめん」
 確かに遠足前の子供のようだな、とほんの少しだけ思ってしまったので素直に謝罪する。むぅ、と頬を膨らませながらも、恥ずかしそうに俯く静。
「だから言わなかったの……。絶対笑われるって思ったから……」
「笑ったのは確かに悪かったけど。でもそこまで恥ずかしがらなくていいじゃん。……俺はまた何か一人で考えてるのかと思って、心配した」
「ごめんなさい、心配かけて」
「いいよ。ちゃんと聞けたし」
 安心した、と声にせずに呟く。
 自分と紡ぐ未来に、一片の欠片でも不安を感じていたら。もしもその不安を抱えて、また一人で悩んでいたら。また自分の元から去ろうとするのではないか――なんて思ってしまった。
 だけど静は既にそんな場所には立っていない。覚悟を決めているのだ。そうなった時の静はとても心強く、美しい。今も、昔も。そしてきっとこれからだって。
 過去の自分からの忠告は変わらず心に刻みつつも、リョーマは少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「それだけ指輪を楽しみにしてたってことね」といつもの調子を取り戻し、軽く笑いながら言ってみせれば「語弊がある!」と途端に抗議の声が上がる。
「指輪を、じゃないよっ」
「はは。分かってるって。……あぁ、そうだ。指輪のデザイン、良かったら静が選んでよ。渡すの遅れたし、静の方がセンスあるでしょ」
 当然ながら、婚約指輪は左手薬指に嵌める。しかしながらリョーマは左利きであり、ラケットを握るのも左手の時が圧倒的に多い。指輪をつけることによってグリップ感は恐らく変わってしまうだろう。慣れれば問題ないとは思う一方で、指輪の材質は柔らかく、スマッシュやラリーの衝撃で曲がってしまう、という話も聞いている。
 故に試合中は指から外すつもりでいる。出来れば首からネックレスにして付けようとは考えているけれど。
 だが静の方はよほどのことがない限り、肌身離さず付けてくれるはず。その点から見ても、静が気に入るデザインを選んでもらう方が望ましいだろう。
 しかしそれに対し、静は首を振った。
「その提案は嬉しいけど……でも私はやっぱり二人が身につけるものだからリョーマくんと一緒に選びたいな。だめ、かな?」
 手に手を重ねて、そうお願いされてしまっては断る術も理由もない。リョーマは微笑みを湛えて頷いた。
「……りょーかい。俺も静も気に入るやつにしよ」
「うんっ」
「なら早いとこ出発しないとね」
「ふふ、はーい」
 笑顔で歩き出す。細く小さな、美しい手とそれを包み込むまでに大きなてのひらを、ぴったりと、隙間が出来ないようにお互い握りしめながら。
 次に二人の指が触れ合う時――そこには確かな証が未来への希望として輝きを放っているだろう。