恋のゆらめきに雪は舞う

「そういえばリョーマくんの誕生日って、いつ?」
 一緒に帰り道を歩いている時、唐突に静からそんな質問を投げかけられた。
「12月24日」
 あぁ、まだ言ったことはなかったな、と思いながら答える。二人が付き合い始めてまだ日が浅い。それに加えてリョーマは自ら誕生日がいつだとか、血液型は何型だとか、アピールするタイプではなかった。自分のことを知ってほしいと思う欲がないわけではないけれど、それよりも格好いい姿を見せたいと考えてしまう。
「えっ、ホント? すごいっ」
「別にすごくないと思うけど。そういう先輩は、誕生日いつなんスか?」
 静は思わず声を抑えるように口元に手をやる。その反応は想像の範囲内だったので、リョーマはすぐさま質問をそのまま問い返した。
 普段、他人のプロフィールに興味を持たないリョーマだが、恋人となれば別である。
 静もまたリョーマと同じで自らを語りたがる人間ではないようなので、丁度良いタイミングだ。
「私は12月22日」
「え、」
 特別意識するであろう日付が自分の誕生日に近いとは思っておらず、リョーマは目を瞬かせた。
「2日違いだね。びっくりしちゃった」
 その言葉を聞いて、先程の認識が違っていたことに気付く。「すごい」偶然に、静は驚きの声を上げたのだ。
 
 
 あれから2ヶ月近く。
 すっかりクリスマス一色に染まった街中を、リョーマはマフラーに顔を埋めながら歩く。その手には小ぶりの紙袋が一つ。もちろん、その中身は静への誕生日プレゼントである。
 だが誰かに贈り物を贈った経験が少ないリョーマにとって、今回の品選びはかなりの難問だった。初めての恋人へのプレゼント。テニスをしている時とは全く別の気合いが入るのは当然なのだけど。
 大切な日に贈り物をしたくて、何より静の喜ぶ顔を見たくて、数時間も色んな店を歩き回り、そうして見つけたのは猫のシルエットが可愛らしい、シルバーネックレス。
 アクセサリーのことはほとんど詳しくない。されどきっと静に似合うと直感的に思ったリョーマはすぐに財布を握りしめてレジへ向かう。
 中学一年生のリョーマには、ネックレスのタグに書かれた金額は高価な方だ。けれど今まではポンタ代に消費していたお小遣いを、静の誕生日を聞いてから貯めていたのでなんとか購入できた。
 
 やがて目的地である広瀬宅の前に着くと、リョーマはダウンジャケットのポケットから携帯を取り出し、「今家の前に着いた」と簡潔的なメッセージを送る。するとすぐに「すぐ行くね」と返事が返ってくる。
「ごめんね! 待たせちゃって……」
 空をぼんやり見上げながら、その場で待機して数分。ガチャリ、と玄関の扉が音を立てて開く。ニットのワンピース姿の静が少し慌てた様子でリョーマの方に駆け寄ってきた。
「そんなに待ってないから平気」
「でもわざわざ家まで来てもらって……。本当にごめんね」
「謝らなくていい。俺が来たかっただけだし」
 申し訳なさそうに視線を下げる恋人に、リョーマはそう優しく声をかける。
 最初の予定では二人でどこか出掛けて、静の誕生日を祝おうと計画していた。サプライズするのは苦手だったので、事前に話すと静はとびっきりの笑顔で頷いてくれた。初めての恋人と迎える誕生日を祝ってもらえるのは、それだけで最高のプレゼントなのだ。
 しかしほんの一週間前、両親がその日揃って休みを取れたみたい、と静が遠慮がちに言ってきた。普段は多忙であまり家にいないという静の家族。もしかしたら愛娘の誕生日を祝う為に休みを貰ったのかもしれない。だがあくまでも推測であり、彼女の両親に直接聞いたわけではないので真相は分からない。それでも折角の家族水入らずの時間を過ごせるというのなら、と今回リョーマは身を引いたのだ。
「誕生日おめでと。はい、これ」
「わぁ……ありがとう、リョーマくん!」
 プレゼント、と言いながら左手に持っていた小ぶりな紙袋を眼前に差し出すと、静の大きな丸い栗色の瞳が輝きを宿しながら更に大きくなった。
 先程素通りしてきたイルミネーションの光にも勝るとも劣らない恋人のキラキラとした表情に、それだけでリョーマの心が綻ぶ。
「ね、今開けてもいい?」
「いいよ」
 許可を貰う必要などないのに、わざわざ確認する律儀な静に笑いながら頷く。早速静は包装紙を破かないよう、丁寧にテープを剥がしていく。
「可愛いっ! これ、リョーマくんが選んでくれたの?」
「当然。っていうか、他のヤツが選んだものなんて渡すわけないじゃん」
 ふふん、と自信ありげに言ってみせたリョーマだが、実のところ静の様子に内心胸を撫で下ろした。自分が贈りたいと思ったものがイコール、相手の喜びに必ずしも繋がるわけではない現実を知っているからだ。
「本当にありがとう。大事にするね」
「……今つけないの?」
 しばらく眺めていた静だったが、やがて袋にそろそろと慎重に仕舞い直してしまう。もしかしたら今すぐ着けたい、なんて言ってくるのかもとリョーマは考えていたので、思わず静へ問いかけた。
「明後日のお出掛けの時につけようかなって」
「ふぅん」
「あれ? ……もしかして今着けてほしかった?」
「……そ、そんなこと一言も言ってないじゃん」
「ふふ、明後日は絶対着けてくるね」
 器用な手先で、ほとんど元の状態に戻したそれを大事に、壊れないように抱きながら静が微笑む。
「リョーマくんもプレゼント楽しみにしてて」
「分かった。ものすごーく楽しみにしとく」
「う……そんなに期待されると、ちょっと怖いかも……」
「冗談」
 そう、明後日――24日はリョーマの誕生日。今日の分も含めて、一緒に出掛けようと予定を変更したのだ。
「明後日、1時に駅前で待ち合わせ……でいいんだっけ?」
「うん。遅刻、しちゃダメだよ?」
「……分かってるッス」
 可愛らしい笑顔で釘を刺されてしまう。
 寝坊癖があったリョーマだが、静のお陰で最近改善しつつあった。けれど冬が到来し、起床時間帯の気温がぐんと下がり始めると、再び起きる時間がぎりぎりになってしまっているのだ。寒い中、自分を迎えに来てくれる静を待たせてしまっている罪悪感はあるので、先程のそれが軽い冗談なのだろうと察していてもリョーマは素直に頷くしかない。
 それに明後日のデートはお互いにとって、きっと大事な、素敵な日にするのだからなおさら遅刻は厳禁である。
「じゃ、そろそろ帰ろうかな」
「えっ、もう……?」
 プレゼントも渡した。予定も再確認できた。今日静の元を訪れた目的は全て果たせたといっていいだろう。会話が途切れたタイミングを見計らって、リョーマはそう切り出す。
 まるで今にも雪でも降ってきそうな厚い雲が二人の頭上を覆い始めている。もしかすると今年の初雪が本当に降るかもしれない。
「先輩のこと、いつまでも独り占めしてちゃ家族の人に怒られそうだし」
 正直未来はまだ想像できないけれど、万が一、もしかすれば、数年後に顔を合わせるかもしれない恋人の両親。嫌な印象はやはり与えておきたくなかった。
「……そ、そんなことはないと思うけど……。でも……うん。寒くなってきたものね。暗くなる前に気を付けて帰ってね」
 ほんのり頬を染めつつ、静が頷く。
「りょーかい。静先輩も風邪ひく前に家に入りなよ」
「うん。今日は本当にありがとう! またね、リョーマくんっ」
 吐き出された白い息でも霞みはしない、静の満面の笑み。リョーマもつられて笑みをこぼした。
 じゃ、と軽く手を振って、リョーマはゆっくりと自宅への道を歩き出す。静の前ではしゃんとしていた背が、前から吹く北風を受けた途端縮こまった。それでもいつもよりもゆったり歩みつつ、ちらりと空を見上げて雪が降らないかな、なんて考える。寒がりなリョーマにとって、雪はあまり好まないものではあったけど、恐らく年上だけど子供っぽい恋人は好きだろう。彼女の笑顔が見られるかもしれない可能性があるなら、降ってもいいなと思えてしまう。あぁ、まったくもって恋とは不思議なものだ。
 そんなことを思いながら数メートル歩いた先、この角を曲がれば静の自宅が見えなくなるという直前。リョーマはふと立ち止まり、そしてなんとなく後ろを振り返った。
 そう、なんとなく気になっただけ――と誰にでもなく言い訳するリョーマの心には間違いなく名残惜しさがあった。

 流石に静は家に入っているだろう。だけど愛しの姿は見えなくても良かった。初めて大好きな人にプレゼントを渡し、喜んでくれたという嬉しさをもう一度噛み締めたかっただけだ。

「な……」
 ――だが、残念ながら余韻には浸れなかった。
 何故ならもういないと思っていた静が北風が吹く中、にこにこと微笑みながらまだこちらに手を振り続けていたのだから。
 その姿にリョーマは息を呑み、その場に立ち尽くしかける。しかし次の瞬間にはまるで突き動かされるように地面を蹴っていた。
「え、どう……ひゃっ!?」
 テニス部で鍛えられた走力でまもなく静の元へ舞い戻ってくる。全速力の代償として少し息切れしている呼吸も、血相を変えて走ってきたリョーマに驚く静の声も、リョーマは全部知らないふりをして彼女を引き寄せた。その衝動で静が少しよろめく。
「リョ、リョーマくん? あの、どうしたの……?」
 訊ねられても何も答えず、ただただぎゅっとその体を抱きしめる。
 似た体格、ほぼ同じ身長ということ。そして単純に恥ずかしい、という理由から今まで何度も抱きしめたいと思う瞬間はあっても、行動に移すのを躊躇っていたリョーマ。鈍い静は、リョーマがそんなことを思っていたなんて露とも知らないだろう。
 だからなんの予告もない、しかもこんな往来の場での抱擁に、静が困惑するのも無理はない。戸惑いは、抱き寄せた体からも伝わってきている。
 それでも、どうしても、リョーマは静を抱きしめずにはいられなかった。
(俺の姿が見えなくなるまでそうしているつもりだったの?)
 思い浮かんだ問いの答えは、口に出さずとも分かる気がする。
 静がリョーマのことを大切に想ってくれていること。思いのほか好いていてくれていること。
 そしてそもそも広瀬静がそういう人間だということ。まだ付き合い始めたばかりだが、リョーマは十分知っているのだ。だって静はずっと真っ直ぐに想いを伝えてくれていたから。
「……早く家に入りなよって言ったじゃん。なんでずっと見送ってんの」
 静からの問いをはぐらかすように、ほんの少し怒気を含んでそう言った。コートを羽織っていない小さな体。リョーマを出迎えた時からなので、すっかり冷えていた。
「あ、うん……。だって今日、リョーマくんが私の誕生日祝ってくれたのがすごく嬉しくって。……その分、名残惜しくて……。ごめんね、心配して戻ってきてくれたの?」
 ぎゅ、と控えめにリョーマの体に手を回しながら、今も素直な気持ちを吐露してくれる静。対するリョーマはお得意の生意気な反論を紡ぐ代わりにひっそりため息を吐き出した。可視化されたそれは静の目には留まらない。
「……明後日、先輩が風邪ひいて出掛けられなくなるのは嫌だし」
「うん、そうだよね。本当にごめんね。今度はちゃんとお家に入るから」
「先輩が家に入るの見てから帰る」
「ふふ、リョーマくんって意外と心配性だね」
「誰かさんが心配させることばかりするからでしょ」
 軽い応酬を交わした後、ゆっくりと手を離して距離を取る。寒さからか、それとも羞恥からか。お互いの頬に赤みが差している様子を見て、静が「ほっぺた、真っ赤だね」と指摘する。
「……走ってきたから。そういう先輩の方こそ、顔赤いけど」
「私は……リョーマくんが初めてぎゅってしてくれたんだもの。恥ずかしいけど、それ以上に嬉しかったから。だから赤くなっててもそれは仕方ないの」
 えへへ、といかにも子供っぽく笑う静の表情に、ただでさえ帯びていた熱が更に上がっていく感覚に陥る。悟られたくなくて、リョーマは顔を背けながら静の背中を押した。
「分かったから、ほら早く」
「はーい。リョーマくんも今度こそ気を付けて帰ってね」
 上機嫌な返事と笑顔を残し、静はようやく自宅へ戻っていく。
 その様子を見届けてから数十秒後。リョーマはそれはそれは大袈裟に息を吐き出した。
「……………はぁぁぁぁ…………」
 どこまでも、本当にどこまでも静が生真面目過ぎて、人を疑うことを知らなくて呆れてしまう。けれどその生真面目さに今回は助けられた。
(……心配しただけで走ってきて、抱きしめるわけないじゃん)
 もしあの時、静がもっと疑い深かったら。疑問に思って問い詰めてきていたら。愛しいと思ってしまったとか、衝動のままに、いや本当はもうずっと前から抱きしめたかったとか、そんな心の内を曝け出さなければならなかったかもしれない。
 本心からの行動を恥じる必要はないのだが、中学一年生、思春期真っ只中のリョーマにはなかなか難しいのだ。
 ――そしてもう一つ。
 抱き寄せた腕や密着していた体から感じた体温に、今になって触れた箇所全てがまるで発火したかのように熱くなってくる。身長は殆ど変わらないのにどうしてか。初めて抱き寄せた静の体は思っていた以上に華奢で、そして何よりも柔らかくて。
(……今日、眠れそうにないかも)
 なんて思いつつ空を仰いだリョーマに、舞い始めた雪が一粒落ちようとしていた。