キミの言葉がまたひとつ魔法になる

朝日が窓から降り注ぐ。その光から逃れるように千里は布団を頭から被った。この眩しさにはいつまで経っても慣れない。慣れる気もないのだけど。
 もぞもぞと寝返りを打ち、窓に背を向ける。よし、これで大丈夫。さてもう一度夢の世界へ――とまどろみ始めた千里だったが、その耳は階段を上る小さな音を拾った。と思いきや、次は聞き慣れた声が飛び込んでくる。
「千里くん、起きてらっしゃいますか?」
 姿を確認しなくても正体は分かっていたが、千里はそっと布団から顔を出す。階段先に立っていたのは、やはりこはるだった。
「あっ……まだ眠ってましたか?」
「…………見れば分かりませんか」
「す、すみません!」
 いつもの声よりも低いそれで答えれば、こはるは慌てて頭を下げる。あともう少しで夢を見られそうだったのに……。千里は心の中で小さくぼやいた。
 だが申し訳なさそうに目を伏せる姿に『二度寝しようとしていたのに』と更に恨みを連ねることは憚れてしまう。千里はこはるの悲しそうな表情に弱かった。
 ぺこぺこと頭を下げ続けながら、こはるは「でも」と言葉を続ける。
「ノックしても反応がなかったので、何かあったのではないかと……」
 心配で早速使ってしまいました、と呟いた彼女の手には小さな鍵。この部屋の合鍵だ。
「何もありませんよ。あるわけないじゃないですか。……ただ、ドアがある部屋での睡眠は久々でしたから」
 ついこの間まで地獄の日々だったというのに。恐ろしいことを言わないでくれ、と震えながら千里は返事を返す。
 ――人との接触を拒み、千里は船に乗ってからずっと自室に篭もりっぱなしの生活を送っていた。そしてそれは、こはるや空汰が船に乗り込んだ日も、敵の襲来があった時も変わらず。
 だが、それがいけなかった。危険だと分かっていても部屋に閉じこもっていた千里を引っ張り出す為、暁人が扉を壊してしまったのだ。外と部屋を遮断する重要なそれを壊され、絶望する千里だったが……それに追い討ちをかけるように「これはいいきっかけだ」と、その日から駆や乙丸に付き合わされる羽目になった。
 こはるも、最初の数日間は千里が連れまわされるのを黙って見ていたが、千里の衰弱していく様子に彼らの行動が正しいとは思えなくなったらしい。部屋を提供してくれて、休息を与えてくれて、駆に訴えかけてもくれた。それでも駆は頷いてはくれなかったれど……こはると共にいる時間が、彼女の優しさが、千里を変えてくれた。
「もう部屋に篭もらない」と宣言して、駆を納得させたのだ。こはるが合鍵を持っているのは、その時渡したからである。駆が「こはるに管理してもらおう」と言ったのだ。
「そう、ですよね。この前まで扉は壊れたままでしたね。……昨日は、よく眠れましたか?」
「……まぁ」
 ベッドの脇までやってくると、こはるは首を傾げて問いかけてくる。心配そうにこちらを覗く瞳。どうにか頷けば「良かった!」と満面の笑みを浮かべた。その眩しさに、どきりと胸が鼓動を打つ。
 ……話題を変えよう。というか、部屋に上がってきた目的を聞かなければ。なんとなく予想はできているけれど。
「それより、やって来たのはなんでですか?」
「暁人くん、朝食の準備が終わったみたいで……千里くんと一緒に朝食を摂りたくて迎えに来ました!」
「嫌です」
「ええ!?」
 予想通りの朝食への誘いに、しかし千里が即答すればこはるが短い悲鳴を上げる。
 外出は勿論だが、食に対する欲もあまり持ち合わせていなかった。当然摂ることは摂るが、その量は普通の人よりもかなり少ない。元々、小食なのだ。
 けれどそんな千里に「もっと食わないとダメだぞ」と山盛りにご飯をよそってくる輩がいる。確信犯で悪意を振り撒く駆とは違って、それはあくまで善意なのだろうけれど。それでも千里は彼らと食事を共にしたくなかった。
 食堂に出向けば最後。小さな胃が悲鳴を上げて、それを申しても、完食するまで逃れられないのだから。
 ここ数日、半ば強制的に連れ出されていては食べさせられ、暫くは動き回ることはできなかった。あんなこと、もう絶対嫌だ。
「ど、どうしてですか? わたしと一緒に食べるのはお嫌ですか? それならわたしは席を離れます。だけど食事はちゃんと……」
「べ、別にあなたが嫌とも、食べないとも言ってません! ……食事はヒヨコさんに頼めば、持ってきてくれます。今までそうしてきましたから」
 焦るこはるに、千里は慌てて説明する。
「ヒヨコさんが……。でもそうしたら……」
「勿論、そのまま引き篭もりませんよ。昨日の今日だし、結賀さんにああ言った以上は。けど、やっぱり食事に関しては……あのまま食べさせられ続けたら、僕、過食で死にます……」
「そ、それは、でも……」
「でも……なんですか?」
「わたしは皆さんと……千里くんと一緒にご飯食べたいです。それに1人での食事は……寂しいです」
 ぽつりと呟いて、こはるは俯く。
 ――1人の寂しさを知ってるから……ではないでしょうか。
 部屋に匿ってもらった時。放っておいてほしいのに、どうして自分を構うのだろうかと、投げかけた問いかけに彼女はそう答えた。
 長らく独りきりで、名前すら忘れてしまったというこはる。彼女こそ、最も寂しさの本質を理解しているのだろう――痛い程に。今思えば、そんな彼女へ問う質問ではなかったかもしれない。
 しかしそんなこはるだからこそ、千里の孤独、そして拒絶を優しく溶かしたのだろう。
 千里は反論することができなかった。対する彼女もただ黙っていた。何も言わず、千里を促して、そして待ってくれている。
「……今から準備するので、少し時間かかりますよ。それでもいいなら待ってて下さい」
「! はい!」
 溜め息を吐きながら、千里はのっそりと起き上がった。やはり食堂に向かうことになるらしい――実を言えば、こちらもなんとなく予想していたことなのだが。彼女とペアを組んで以来、すっかりこはるに敵わなくなっていることを千里は自覚していた。それが、彼女へ抱き始めている想いが一因していることも。
 そんなことなど露知らず、千里の返事に「じゃあ、下で待ってますね」とこはるは階段を降りていく。
「あっ!!」
 と思いきや。数段目で彼女が声を上げる。突如響いた声に、千里はベッドから立ち上がる中途半端な姿勢で肩をびくつかせた。
「こ、今度はなんですか?」
「いえ、あの……言い忘れてたことを思い出して」
「言い忘れてたこと……?」
「おはようございます、千里くん! 今日も素敵な一日になるといいですね!」
 そう言い放つと、こはるは今度こそ一階へ降りていった。

「……………………もう、なってますよ」
 数秒後。小さな、とても小さな千里の声が寝室に落とされたけれど……彼女には届かずじまいだろう。

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