嘘みたいに甘く・絶望みたいに深く

見えないものが視える。人ならざる者の声を聴き、会話を交わすことができる。
 霊媒体質。彼の能力を言葉で説明されても、鳴海の家族は理解することなく、寧ろわが子を気味悪がって手放した。
 肉親でさえそうなのだから、他人なら一層のこと壁は高い。小学生ならば、尚更のことだ。
 聡明な鳴海は、幼いながらも己の立場をよく理解していた。自分が一般人とは異なるという事実も、家族との別れで充分すぎるほど悟っていた。
 気味悪がられるなら、心無い言葉を投げかけられるぐらいなら、いっそ1人の方がいい。そう考えた彼は、転校した学校先で不必要以上に他者との接触を避けた。だがその結果、鳴海はますます孤独になってしまった。
 無口な鳴海を気持ち悪いと言って、石を投げてくる同級生。体に当たる度に痛む。それでも悲鳴を上げず、ただじっと耐える鳴海を、彼らはしつこく追いかけてきた。
 そんな時だ。やめなさい、と遠くから叫ぶ声が聞こえた。
『いじめちゃだめ!』
 息を切らしながら鳴海を庇うように立ったのは、鳴海より僅かに小さな少女だった。彼らと同じく、彼女もまた同級生だと、ぼんやりとした記憶の中ふと思い出す。
『なんだよ、お前! どけよ!』
『邪魔するなよ!』
『いや!』
 突然現れた邪魔者にいじめっこ達は苛つき、今度は少女に石を投げつける。体や顔、ところ構わずぶつけてこられても、彼女は彼らが去るまで小さい体を精一杯広げて、鳴海を守った。
『……だいじょうぶ?』
『…………』
『もしかして、どこか痛いの?』
 どんな事をしても退く様子が見えない少女に、やがて同級生達は帰っていった。彼らの背中が遠のいたのを確認するや否や、少女は鳴海に怪我の容態を訊ねてくる。でも彼女の言葉に、彼はすぐに返答することができなかった。
 クラスメイトとはいえ話したことすらない彼女が、何故自分を庇ったのか。まっすぐ見つめてくる少女の視線が少し怖くて、戸惑いがちに口を開いた。
『どうして、助けたの』
『えっ?』
『俺のこと、気味悪がって誰も近づかないのに』
 彼の暗い声を遮って、そんなことないよ、と彼女は首を振った。
 少女が自分の何を見て、何を考えてそう判断したのか分からない。鳴海自身、自分が異質なのは知っていたし、周りにもそのように扱われてきた。
 だからその事実を否定されるなんて考えてもいなくて、暫く彼は言葉を失う。
『……やめて。助けてくれなんて、言ってない。早くどっか行って』
 しかし少女がいくら首を振ってくれても、事実も過去も変わらない。少なくとも、彼をいじめてくる奴らにとっては何を言っても変わることはないのだろう。
 そうだとしたら鳴海を助けた彼女さえも、彼らの標的になる。簡単に想像できてしまう未来を思って、鳴海は敢えて冷たく突き放そうとした。
 だが、少女は毅然とした声でそれを断った。
『嫌。だってあなた、泣いてるから』
『……え』
『泣いてる人がいたら、傍に付いていてあげなくちゃダメだって、お母さん言ってた』
 手を伸ばされて、ようやく鳴海は自身の頬に伝う涙に気付いた。静かに、だが絶え間なく溢れてきて、視界がぼやける。彼の苦しみに気付いたのかそうでないのか、傷だらけの顔で彼女は鳴海の手を取った。
『私、神木咲耶って言うの。友達になりたいな。ねぇ、一緒に遊ぼう?』
 *****
 放課後を迎えた教室には、もう誰の姿も見えなかった。最近、1人でぼんやりと考え事をしていることが多かった幼馴染みも、今はいない。
 窓から差し込む太陽の光は教室を橙色に染め上げ、暗い影を落としていた。どこかから聞こえるカラスの鳴き声に耳を傾けながら、鳴海は空を見つめる。
 夕暮れ。時々彼は思い出すことがある。
 無邪気に微笑んだ咲耶が、夕陽に照らされていたあの日。決して忘れることはできない、彼女との思い出の1ページ。
 あの時咲耶が声をかけてくれなかったら、今の日常はなかったと鳴海は思っている。いや、実際にそうだろうという確信を持っていると言ってもいい。
 彼女の優しさが最初は信じられなくて、裏切られたくなくて、「遊ぼう」と寄ってこられても冷たい態度を取ったこともある。それでも彼女は笑って、時には傷つきながらも自分の隣にいてくれた。
 あれから、幾つもの季節が過ぎた。相変わらず咲耶は暢気な笑顔を見せている。鳴海の胸で育つ恋心に気付く素振りもなく、隣を歩き続けている。
 そんな彼女が、最近自分に対してぎこちなくなったのはいつからだろう。好きな人はいるのか、と訊ねた時の悲しそうな表情が、今も胸を突く。
 もしかして、と抱いてしまいそうになる期待を振り切ろうとした。振り切らなければならないと強く思った。なのに、右手にあるものがそれを許してはくれない。
 今朝、鳴海に読んでほしい、と頬に朱色を散らばせた咲耶から受け取った封筒。可愛らしいそれを見つめて、一つ息を吐く。そして覚悟を決めると破らないように、慎重に開封した。

 ――鳴海へ。
 出てきた1枚の便箋を開けて最初に見えた自分の名前は、あまりにも丁寧だった。渡してきたのは咲耶だったけれど、一瞬他の誰かからの預かり物だったのかと疑ってしまう。こう言ってはなんだけれど、今までの付き合いの中で何度も見たことのある彼女の文字は、残念ながら綺麗だと褒められない代物だ。
 しかし間違いなく、この手紙を書いた張本人は咲耶だと分かる。鳴海、と彼を呼ぶ女の子は、後にも先にもたった1人だけだ。
 ――突然のお手紙ごめんなさい。鳴海、きっと驚いているよね。
 全くもってその通りだと、彼は緩やかに微笑んだ。出会ってから今日まで、2人の間で手紙のやりとりなどすることがなかった。だからこそ、なのだろう。一字一字、すごく気合が入っているのが伝わってきた。
 そんな口書きから始まった短い文章を、ゆっくりと目で追っていく。
 その内に、便箋を持つ指が微かに震え始める。途中の一文には、首を振って。そして最後まで読み終えると、鳴海は小さく笑った。
「やっぱり俺の幼馴染み。肝心なところで抜けてる……」
 こみ上げてくる想いをぐっと抑えながらの呟きは、夕闇に溶けそうなぐらい小さい。
 ――もし、良かったら私の変人になって下さい。
 ラブレターを渡してきた目的、そしてその想いは、最後の一行に込められている――はずなのに。何故、どうして、よりにもよって、一番大事な部分を書き間違えるのだろう。
 突っ込みを入れるべき相手はここにはいないのに、彼は続けた。
「気合、入れ過ぎ。慣れないことするから。本当、ほんとう、に……」
 バカだな、と言うつもりの声は出てこなかった。鼓動が痛い。胸を強く握り締められた気がして、鳴海は俯いた。
 想いの丈を、彼女の知る限りの言葉で綴られたラブレター。咲耶は鳴海に恋している。そして付き合いたいと、恋人になれたらと願っていた。
 いつからだろう、とふと思う。でもそんなこと、大きな事実の前ではどうでも良かった。嬉しい、なんて言葉じゃとても表現できない。大好きな人から自分も同じ想いだと告げられたのだから、当然だ。
 けれども、鳴海はとても苦々しい表情で手紙を見つめた。咲耶への愛しさに比例して、彼の心を哀しみが黒く染め上げていく。
「……どうして、」
 胸に募る想いは彼女以上だと言い切れるのに、咲耶が、そして自分が最も望む返事を告げることが許されなかった。そんな理不尽なことがあってはならないのに、身の上に降りかかる宿命に抗う術を彼は知らない。
 ――どうして、運命なんてものがあるんだろう。
 答えを求めて問いかけを音に乗せるが、静かな教室に響くだけで当然何も返ってこない。返ってくるわけがない。ぎり、と唇を強く噛み締める。運命への衝動を飲み込むかのように。それを憎むだけで、戦わないことを選択する自分を傷つけるように。
 鳴海が出した答えを受け止めきれず、きっと咲耶は傷つくだろう。
 それでもどうか、泣かないでくれたらいい。無理なお願いだと分かっていても、彼は祈らずにはいられなかった。
 顔を上げる。幼い頃、優しさで包み込んでくれた夕焼けも、今はただ悲しい色だ。同じ色に照らされる封筒をぎゅっと握り締めると、鳴海は屋上への階段を昇っていった。