あなたが望むままにどうぞ

 詠から贈られるキスは、いつも優しく温かい。
 それは例え喧嘩した後だったとしても。否、寧ろそういう時こそ、まるで壊れものを扱うように唇を合わせてくれる。
「ん……」
 そしてその日も――些細な言い合いを終えた後、ふと目と目を合わせ、互いへの気持ちを確認するかのようにゆっくりと唇を重ね合った。
「……よ――んぅ……」
 一回、二回、啄むようなキス。いつもならそこで終わる触れ合いが、しかし今日は止まる気配がなかった。おや、と不思議に思うよりも早く、今度は角度を変えて更にもう二度唇を塞がれる。なんだかいつもの詠らしくない。その真意を確かめようと、口付けの合間にその名を呼ぼうとした。
「んっ」
 けれどそれは叶わず、すぐに何度目かの口付けが降ってくる。ここでようやっとこれは様子がおかしい、と確信を得た。
「――待って!」
「……っ」
 次のキスが来る前に、凛は咄嗟に両手を重ねて突き出した。見事に詠からのキス攻撃をしのいだが、詠の方は我に返ったように目を瞬かせた。
「悪い……」
「あっ、違うの。そうじゃないの! 詠とキスするのは好き……って、やだ、待って、ちが、もう何言ってるんだろ、私っ!」
 悲しげに目を伏せる恋人に、凛は慌てて理由を語ろうとした。決してキスを拒否したわけではないと伝えなければ。けれどそんな思いは空回り、何を言おうとしているのか自分でも分からないまま口だけが動く。
「……凛、落ち着け」
「う~……元はと言えば詠が、あんな風にキス、するからだよ……」
 そんな凛に、詠がそっと声をかけてくれる。しかしそう簡単に落ち着きを取り戻せない。そもそも、まるで息をもつかせないキスの嵐で凛から落ち着きを奪っていったのは、誰でもない詠なのだ。
「……怖かったか?」
 頬を熟した林檎のように赤く染めながら小さく呻き続ける凛に、詠は躊躇いがちに窺う。その瞳はどうしてだろう。ひどく傷ついているように見えた。
「ううん……違うの。怖かったわけじゃ、ないの。詠と……キスできるのは、嬉しいんだよ。すごく幸せだって思うの」
 さっきは咄嗟に否定しかけた気持ちを、素直に吐露する。
 詠と交わすキスは好きだ。気持ちがいい、と言うのはなんだかはしたないような感じもするけれど、事実そう思う。愛されている喜びに、幸せに、ただただ嬉しくなる。心が満たされていく。
「でも……いつもはもっと優しいのに、今日はちょっと違ったから。だからなんでなんだろうって……」
 凛が戸惑うのも致し方ない。あんなに激しく、そして何度も求められたのは初めてだったのだから。
「……本当は、もうずっと前から思ってた」
「えっ……?」
「凛と、こうやって口付けしたいって、考えてたんだ。……けどお前のことを大切にしたかったから、ニンゲン同士の口付けを真似ていた。そうしたらきっと傷つけないだろうって」
「詠……」
「俺の気持ちのままお前を求めた結果、怖がらせたり、傷つけるのは嫌だったから……自分を抑えてた」
 人間とあやかし――二人の間には決して越えられない壁がある。寿命はもちろん、身体能力に関しても、あやかしである詠の方が強い。そのことを凛は凛なりにしっかり理解していたつもりだったが、実際のところは詠が気遣ってくれていたらしい。
 改めて、詠の自分に対する気持ちが大きいのだと思い知らされてしまった。
「だけど……ごめん。さっきは抑えられなかった」
 自分の不甲斐なさを反省するように大きな息を吐き出す詠の姿に、胸がきゅううと締め付けられる。
 ――あぁ、私やっぱり詠が好きでたまらないなぁ、と心の底から強く思った。
 それと同時に詠の、自分を大切に想ってくれているが故の思い込みや懸念を解消しなければ、と決心する。
「……もう、詠のバカ」
「あぁ、そうだよ。バカで悪かったな……。って、おい!?」
 いつもなら反論してくるのに、本当に自分の行いを悔いているようだ。俯いたままで目を合わせてくれない恋人の顔を、凛はやや強引にこちらに向かせる。
「そうじゃなくって。私のことそれだけ想ってくれてるのに、どうして私のこと信じてくれないの?」
「……え?」
「詠になら、詠が望むことなら私、全部受け入れるよ。驚くとは思うけど、詠のことを怖いなんて絶対思わない。優しいキスも、……今みたいなキスも、詠がくれるものなんだもん」
 だからもう自分を抑えようとなんてしないでほしい、と願いを紡げば、途端詠がカッと顔を赤くした。
「っ、お前なぁ……!」
「えっ、ダメだった?」
「ダメっていうか……あぁもう。さっきの今で、そんなこと言うなよ……本当に抑えられなくなるだろ……っ!」
「……うん? だからいいよって言っ……ひゃっ!?」
「……前言撤回とかなしだぞ。後でやっぱりダメとか言っても、耳を貸してやらないからな」
 掴まれる両手。ぎらりとした眼光。綺麗な、あやかしではなく、ニンゲンでもなく、ただ凛だけを求める男の顔をした詠が、まるで最終通告のように囁いた。その言葉と、これからのことを想像すると、心臓が悲鳴を上げるように高鳴る。
 さりとて、凛の気持ちは変わらない。
「言うわけないよ――」
 それだけ伝えた凛は今度こそ逃げず、自らゆっくりと目を閉じるのだった。