代役少女と本物王子様、二人の幕間

「へぇ? お前があの例の一年?」
「なーんか女みたいにひょろっとしてんじゃん」

 ネットを挟んで対峙する対戦相手達が、ひそひそと、しかし確実にこちらに聞こえる声でそう言った。
 その嘲笑の標的は誰でもない。白い帽子、少し大きめの、青と白と赤のトリコロールが眩しいレギュラージャージを身に纏い、小柄ながらも高い技術力でどんな相手にも怯まず、勝利を手にする――青学テニス部の新たな柱・越前リョーマである。
 だが、今それを真正面から受けている人物はその恰好こそリョーマであったが、リョーマではなかった。
(ひょっとしてもうバレてるんじゃ……っ)
 緊張と不安に体を震わせていた越前リョーマ――の格好をした広瀬静は、彼らの言葉を聞いて悲鳴を上げそうになったものの、どうにか堪える。
 そう、静はリョーマの代役として今コートに立っていた。女みたい、ではなく、正真正銘女の子の静が、リョーマのフリをしているのだ。
 何故そうなってしまったのか。それには二つの理由があった。
 一つ目。本来、この試合のメンバーとして選手登録されているリョーマが、寝坊というなんとも彼らしく、しかし後で厳しく注意されるであろう理由で遅刻している為。これが根本にして最大の理由。
 二つ目。以前も似たような状況に陥った時にリョーマの代役を務めた堀尾、そしてリョーマと同じぐらいの背格好であるカツオ、カチロー共に登録選手だからだ。残念ながら、もう他にリョーマの代役を務められそうな部員はいなかった。
「お願いしますっ、広瀬先輩!!」
「挨拶の時だけでいいので!」
 やむを得ない状況だと分かっていても、選手でもない、ただのマネージャーである自分が代役をするなんて……とまだ躊躇していた静だったが、後輩達に頭を下げられてしまってはそれ以上拒否することができなかった。
「ボクのもので良ければ」とカチローが貸してくれたレギュラージャージに腕を通す。ファスナーを上まで上げ、中の制服を見えないようにし、ズボンもとりあえずレギュラージャージ仕様の長ズボンを履いた。
 リョーマのトレードマークと言ってもいい帽子に関しては、近くにスポーツショップがあったので、同じブランドではないが購入してきたというそっくりのものを被った。ウィッグまでは流石に用意できなかったが、肩まで伸びる栗色の髪は緩く束ねて帽子の中に入れてしまえばいい、と桃城のアドバイス通りにすると、あっという間に「越前リョーマ」に変装できてしまった。
 ただそれはあくまでも見た目だけであり、リョーマをよく知る人が見れば静の変装などすぐに見破られてしまうだろう。リョーマと静は性別の違いはもちろんだが、元々雰囲気自体が正反対だ。
 感情豊かでいつだって誰にだって温厚な静に対して、淡々とした話し方や、クールな見た目から親しい人以外にはどこか冷めた印象を与えてしまうリョーマ。
 ――故に二人は惹かれ合い、恋人関係も上手くいっているのだけど。
 それはさておき、静の懸念は何よりも、リョーマ本人ではないと相手に気付かれてしまうことだった。しかし今日、青学が対戦する相手校との交流は殆どない。偵察はされているだろうが、数分程で終わる挨拶だけなら大丈夫じゃ、と顧問であるスミレにも背中を押されてしまったので、なんとか表情を作りながら「両校の選手はコートに並んで下さい」という審判の声に従い、静は選手たちと共にコートに立った。
 実際スミレと青学メンバーが睨んだ通り、相手の選手らが静の変装に気付いた様子はなかった。一部の選手が静に向けて放った言葉は、リョーマ本人だと信じ込んでいるからの挑発だ。
 一瞬ドキリとしたが、代役に気付いているならばすぐさま審判に報告しているはず、と静も冷静に考え、しかし顔を見られないよう、帽子のツバに指を添える。リョーマがよくやる帽子を直す時の仕草。
「へへ、ビビってるみたいだぜ」
「調子悪そうだけど、マジで試合出んの?」
「……っ」
 その様子に向かい側にいる選手たちがまたへらへらと笑った。余程自分たちの実力に自信があるらしい。「越前リョーマ」を前にしてこの態度、そして嘲笑ってみせる余裕があるのだから。
 いくら変装しているからとは言え、目の前で恋人を貶されるのはあまり……いや、かなり気分が良くなかった。それでも何か言い返せば、自ら正体をバラすことになってしまう。静はぎゅ、と唇を噛んで耐えようとした、けれど。
「こいつがこんな感じなら、他の奴らも大したことないんじゃね?」
「見たことねぇ顔ばっかだしな」
「んだと、てめぇら……!」
 いよいよ大切な仲間たちまでも貶す発言が飛び出てくる。それには静の為にも、と静観していた海堂たちも、流石に聞き捨てならないと口を開きかけた瞬間――。
「……ま、まだまだだね」
 一度は口を閉じた静が、恋人のお決まりの台詞を言い放った。瞬間、皆揃って唖然とし、一発触発だった空気がしん、と静まり返る。
 周囲の戸惑った反応に気付きつつも、静は続ける。
「そんなに言うなら、早く試合しようよ。そうしたらどっちが強いか、はっきり分かるでしょ」
 喉が震えそうになりながら、それでもなるべく低い声調で、リョーマがこの場にいたなら何を思い、どう言うのだろう、と推測して、静なりの「越前リョーマ」で力強く言ってみせたのだ。

 ***

「広瀬、お前……すげぇな!」
「……ば、バレてない……? 大丈夫……?」
「あぁ、大丈夫だ。……けど、まさかお前があんなことを言うとは思わなかったぞ」
「ご、ごめんね! その、なんというか勢いで……挑発だって分かってはいたんだけど……。本当にごめんなさい……」
 挨拶という名のにらみ合いを終えてベンチに戻った途端、桃城と海堂が静に声をかける。静は自分がやってしまった大胆な行動に、泣きそうな顔になりながら二人へ謝罪する。別に責めてるわけじゃない、とフォローする海堂に「そうそう、こいつが最初にキレそうになってたし、お前は悪くねぇよ」なんて桃城が口を挟むものだから、いつものやりとりが始まりそうになる。
 そこに慌てて割り込んできたのは堀尾たちだった。
「でも、本当に凄かったですよ! リョーマ君がそこにいるみたいで!」
「うんうん! リョーマ君だったら実際にああやって言い返してそうだなぁって思っちゃうぐらい!」
「勝気な広瀬先輩……かなりレアだったよな!」
 後輩たちにべた褒めされても、静は羞恥と失態にうぅ、と小さく唸るだけだ。
「ほれほれ、アンタ達! 話はそこまでにしな! もう試合が始まるよ!」
「は、はいっ!!」
「すみません!」
 騒ぐ部員たちをスミレが大声で叱咤すると、一同は慌てて散っていく。
「……あの、私はまだこのままの方がいいですか?」
「いや、もういいよ。着替えておいで。次はマネージャーの仕事じゃ」
 指示を仰いだ静に、スミレはふっと小さく笑った。
「リョーマからもうすぐ着くって連絡が来たからね」
「そうですか。……良かった」
 しかし困ったやつじゃ、とすぐさまスミレは肩を竦める。そんな彼女に静も苦笑いを浮かべつつも、時間稼ぎが無事終了したことと、これで間違いなくチームの士気が上がることを確信して安堵した。
 さて、それではと、本来のマネージャーとしての仕事に戻るべく、静は急ぎ足で着替えの鞄を持ってその場を離れる。試合がまもなく開始するから、というのももちろんあったが、何よりも変装を解きたいという気持ちも強かった。
 恋人の代役を務めたのは自分から申し出たことではなく、あくまで頼まれたから。だから例え本人にこの姿を見られたとしても問題はない。感謝されことすれ、咎められることもないはずだ。けれどイコール、堂々していられるかと聞かれたら――否である。
 試合会場から数百メートル先にある更衣室へ小走りで向かう。変装用の帽子はほんの少し大きく、走ると前にずれてしまい静の視界を狭くした。
「……わ、ぷっ!」
「いてっ」
 それが完全に災いして、角を曲がった先で人とぶつかってしまう。
「すみませ――っ!?」
「……あ、静先輩」
 慌てて謝った静だったが、ぶつかった相手の顔を見た瞬間、ひぇ、と小さな悲鳴を上げた。
「り、り、りょっ……! あのっ、これはね?!」
「何慌ててんの?」
 目の前に現れたのは、最もこの姿を見られたくなかった人物、本物の越前リョーマだった。いつもならこの姿を見ただけで胸がときめき、そして大いに安心するのだが……今は全く逆の気持ちだ。
 あらぬ誤解を招かないように、と慌てて事情を説明しようとする静に、冷静なツッコミが入る。
「ばあさんから全部聞いてる。俺の替え玉してたんでしょ」
「あ、そ、そっか。……うん、そうなの。ついさっき挨拶が終わったところだよ」
「ふぅん……」
「……リョーマくん?」
 よくよく考えれば、スミレが何も知らせてないわけがなかった。ホッとする静に、しかしリョーマは恋人の、自身に変装しているその姿をじいっと見た後、やがて少し難しい顔をした。
 事情を知っているなら、どうしてそんな表情をするのだろう?
 考えられる理由はただ一つ。
「……挨拶だけだったし、顔は見られないようにしたつもりだから、多分バレてないとは思うけど……」
 申し訳なさと居た堪れなさに、静はおずおずとそう伝えた。安心して、と言い切ることができない行動をしてしまったことを悔やみながら。
 似ている、と皆は言ってくれたけど、背格好と服装という見た目で助けられた部分が多い。立ち居振る舞いは正直似ても似つかなかった。本物のリョーマなら、そもそもあんな挑発を受けていないだろうし、受けたとしてももっと強烈な一言で相手を怯ませたに違いない。
「ん、サンキュ。それから……ごめん」
「ううん、大したことしてないよ。でも私がリョーマくんの代わりをやるの、やっぱり無理があった気がするわ。もし試合中に怪しまれたらごめんね……?」
「寝坊した俺が悪いんだから、先輩が謝る必要ない。怪しまれようが、勝てば問題ないし。……っていうか、先輩は怒る側でしょ」
 静の謝罪に、リョーマはバツが悪そうに返した。寧ろなんで怒ってないの、と不思議そうにしている。
「うーん? それは竜崎先生がきっとすることだろうし」
「…………まぁ、そうだけど」
「私は怒るというよりかは、心配したかな。皆もリョーマくんが間に合わないんじゃないかってすごく不安そうにしてたから」
 だから間に合って良かった、と安堵の笑みをこぼす静に、リョーマはそれはそれは大きなため息を吐いた。
 スミレや海堂に怒られることを考えたのだろうか。二人ともきっと今日の行いを注意するだろう。特に顧問であるスミレは男子テニス部を導くだけあってとても厳しい。自業自得とはいえ、リョーマが憂鬱になってしまうのも仕方ない。
「ちゃんと謝ったら大丈夫。きっとものすごく叱られるだろうけど……許してくれるよ」
 ため息の理由をそう捉えた静は励ますつもりで声をかけたが、リョーマはそうじゃないと言いたげに首を振った。そして「……一つ聞きたいんだけどさ」と前置きして、あることを問いかける。
「そのジャージって、誰の?」
「えっ? 加藤くんのだけど……?」
 突拍子もない質問にどうしてそんなことを聞いてくるんだろう、と疑問符を浮かべつつも静が答えれば、
「……ならいいか」
 僅かな時間、思い悩んだかと思えば、やがてぽつりとそう呟いたリョーマの表情は和らいだように見えた。
「いいって……何が?」
「別に、なんでもない」
「もう、そうやってはぐらかす」
 いつもの調子に戻ったリョーマを、静はめげずに追究しようとするけれど「早く着替えないと、先輩もばあさんに怒られるよ」なんて言われてしまっては、それ以上聞くことはできなかった。
 確かにここで押し問答していたら、リョーマの言葉通りになってしまいそうだ。腑に落ちないまま、それでも急いで着替えるべく、静はようやっと更衣室へ入っていく。

(カチローのなら、まぁ……いいか。他の奴のよりかは、まだ大丈夫。……って思っとこ。今回は俺が悪いんだし)
 恋人の背中を見送った後、帽子を深く被り直しながら、自分を納得させるようにリョーマが心の中で繰り返している間。
(……まさか、そんなわけ……ないよね?)
 対する静はふとある可能性を思いつき、着替える手を止めないようにしながらも、ぽぽぽと顔を赤らめていた。
 ――二人が答え合わせをする日は、まだきっと遠い。

 

 

 

 

「ねぇねぇリョーマ君! 今日の広瀬先輩、すごくカッコよかったんだよ!」
「あぁ、うん。聞いてる」
「そうそう! あんな風にリョーマ君そっくりなこと言えちゃうなんて、ボクびっくりしちゃった!」
「……え?」
「付き合ってると相手に似てくる、ってよく言うもんなー! けど、あんな啖呵切れちゃうなんてなっ!」
「……啖呵、ね。堀尾、その話詳しく教えてよ」
「きゃああああ!!! 待って待って! みんなちょっと待ってっ!!」
 ――数時間後。帰りの電車を待つホームでこんな会話が交わされるのだが……それはまた別のお話である。